「小学校を卒業する頃には今やっている技は全部できました」…飯伏幸太70分間インタビュー(1)

2018年3月18日12時0分  スポーツ報知
  • 「小学校を卒業する頃には今やっている技は全部できました」と言う飯伏幸太

 女性ファンの心をわしづかみにするルックスと強さを兼ね備えたプロレスラーとして抜群の人気を誇るのが飯伏幸太(35)=飯伏プロレス研究所=。最高の舞台・新日本プロレスで大暴れの一方、バラエティ番組にも引っ張りだこの「ゴールデン☆スター」は「常に進化しか考えてません。プロレス界の歴史を変えたいと思っています」と豪語。70分間に渡って熱い思いを語った。(ペン・中村 健吾、カメラ・小泉 洋樹)

 ―小5の時にプロレスラーになりたいと思ったそうだが―

 「そもそもの最初から聞きますか? その頃、家庭でVHSのビデオを買って、初めてレンタルビデオを借りることになったんです。僕は『ドラゴンボール』が見たかったんですけど、中学生の兄がプロレスを見たいと言って。家庭的なランクで言ったら、兄の方が上。しようがなく、2つは(ビデオ)借りられないということでプロレスのビデオを借りることになって。興味なかったんですけど、見ているうちに『これはリアル・ドラゴンボールかも知れない』って。とにかく、強い者に憧れていて、強くなりたかったんで見ているうちに、あれ、ちょっと面白いなって。それから深夜のプロレス中継を録画して見るようになった。一番惹かれたのは、みちのくプロレスのグレート・サスケさん。どんどんプロレスに、特にインディーにはまっていって。もちろん、メジャーな新日本プロレス、全日本プロレスも見ながらですが」

 ―インディーの魅力とは?

 「もちろん(メジャーもインディーも)命をかけているという点では変わりはない。でも、少ない人数の会場でも毎回、全力でサスケさんが飛んでいるのを見て、すごいと。本当に(観客)50人いないんじゃないかという会場でも変わらぬファイトを見せる。これはすごいなって。最初は飛んでいる、すごい、かっこいいだったんですけど、途中から、なぜ、この人はケガしているのに、こんなにいつもと同じように飛ぶんだろう、戦うんだろうという部分を見るようになりました。すごく感情移入するようになって。自分が何かでつまずいたり、例えば勉強とかでつまずいた時とかプロレスラーに例えるようになって。あの人はケガしても飛んでいる。自分はまだまだ甘いなって。そう思って、乗り越えてきました」

 ―「命がけ」は今のファイトスタイルそのまま―

 「そうですね。僕の気持ちはあの時から変わっていない。小5のままです」

 ―2004年にエンターテインメント色の強いDDTからレスラーデビュー。最もメジャーな新日本プロレス入団は考えなかった?

 「体重も軽かったし、自分の中で挑戦もせずに挫折しているんです。新日本プロレスのレスラーにはなれないと、自分で決めつけていた部分があった。体重が軽いからと。でも、DDTなら入れるとか、自分の中で決めつけていた部分があって、それは間違いだったなと今、思います」

 ―武藤敬司に高田延彦が負けた95年10月の新日対Uインターの対抗戦も大きな影響を与えた?

 「13、4年前ですかね。武藤さんのようにプロレスラーは大きくないとっていうのが少し残っていた。小さいレスラーもたくさんいたんですけど、メジャーな新日本プロレスは大きくないとダメっていうのが自分の中にあった。挑戦するのを諦めたというより、その資格がないと思ってしまった。資格は自分にはないのかなと思ってしまった部分があって、挑戦を諦めてしまいました」

 ―それが高校生の時?

 「高校生くらいの時には本当になれるのかな半分、でも、絶対にプロレスラーになるが半分という感じになってましたね」

 ―高校卒業後、上京。1年間、成田空港で整備の仕事をした―

 「とにかくプロレスラーになりたかった。僕、鹿児島出身なんですけど、プロレスの団体がなくて。九州にもほぼなかったんで。関東の方に出てくれば絶対、プロレスラーになるための何かがあると思って。就職先は先生と親で決めてもらって。どうせ初日で辞めるんで、どこでもいいと思っていた。決めて下さいくらいの感じでした」

 ―デビュー時から「頭の中で想像できる動きは全て実際に再現できる」という抜群の運動能力が武器―

 「自分では中々言いにくいんですけど(笑)。それは元からですね。小学校を卒業する頃には今やっている技は全部できました。(現在のフィニッシュホールド)フェニックス・スプラッシュ(注)も小6では形としてはできたんで。人に当たるとかは怖くてできなかったけど、形としてはできた。フェニックス・スプラッシュはもう25年くらいですか、やり始めて。絶対、失敗しないですね。自分の中で練習の段階を踏んでですけど、1日でできました」

 ―性格面も強い?

 「元々負けず嫌いでしたね。自分の地域の運動会とかでも小学生の部、大人の部とか分かれていて、それでも、大人の部に出られないと、ずっと泣いてました。3、4歳の時から。誰にも負けたくないというのが、その時点でありましたね。しようがなく、大人の部に出してもらうんですけど、100%かなわないんですよ。それでも勝ったと、どこかで思い込みながら。とにかく負けず嫌いでした」

 ―技の研究はどうやって?

 「サスケさんもそうですけど(FMWなどで活躍の覆面レスラーで16年に死去した)ハヤブサさんですね。VTRをすり切れるほど見て研究しました」

 ―プロレス入りの前にキックボクシング、新空手も習得した―

 「キックボクシングを途中で挟んでしまったがゆえに階級というものに対する意識が生まれた。いつかキックボクシングをきちんとやってやろうという気持ちがあって、体重を増やすことに抵抗が生まれてしまって…。減量の競技なんで、体重を増やすことに罪悪感が刷り込まれてしまった。なので、体重を70キロくらいでキープしていて。新日本プロレスだと、70キロ(のレスラー)なんていないっていうか。ジュニアでも下の方でデビューできないレベルなんで、ちょっと厳しいなという。でも、キックをやりながら絶対、プロレスラーになると思っていて。当時は異種格闘技戦とか多くて、プロレス最強って部分が自分の中であった。どっちもできるプロレスラーになりたいって思ってましたね。それが19、20、21歳くらいですね」

 ―21歳の時、プロレスのためにやっていたキックボクシングの大会で優勝してしまった―

 「優勝しましたね。本当に申し訳ないですけど、キックボクシング自体には全く興味なくて。あくまでプロレスのためにやってました。自分に負けた人は今思うと最悪ですよね。屈辱だと思います」

 ―そして04年、DDTでデビュー。

 「入門する1年前に見に行った時にキックボクシングの選手も多かったんです。(デビュー戦の相手)KUDO選手も元々キックボクサーで。あれ、このキックなら自分の方が上だな、他の選手のパンチも自分の方が上だなと思って。ここなら行けるかも知れないと思った。当時、格闘技っぽい人もいて、自分の好きなエンターテインメントもミックスされた団体だった。それで、ここが面白いかも知れない、通用するかも知れないって思ったんです」

 ―DDTの高木三四郎社長との出会いも大きかった?

 「本当にお世話になりましたね。今でも恩があります」

 ―常々「上がるリングはオカネでは選ばない」と言っている―

 「自分が求められてやりたいことだったり、本当に求められている所というのが分かったら出たいと思うし。プロレスをもっと広めていきたいというのがあるので。そこも変わってないです、昔から」

 ―今は個人事務所「飯伏プロレス研究所」所属のフリーの立場だが、オファーも全部、自分で処理?

 「全部、個人で受けてます。難しいですね、交渉だったり、いろんな部分で難しい部分ありますけど、これまでに対WWEの交渉とかもやったんで、そのへんは問題なく。(ギャラは)僕は評価だと思っているんで。去年出たWRESTLE(レッスル)1だったり、評価は数字だと思ったんで。どのくらい僕を評価してくれるんだと。どのくらい評価してくれますか? このくらいですと。満足したので、もらって、そのまま全部返しました。いい評価をしてくれたんで。ああ、こんな評価してくれるんだ。じゃあ、大丈夫ですと、全部返しました。受け取ってないです。評価してくれて、自分を欲してくれているのが分かったので、じゃあ(団体を)助けようと思って。それも自分の中でオカネじゃないんだなというのは感じましたね。もちろん、オカネは欲しいですけど、それ以上のものがあるなと思いました。自分が求められているというのはオカネを超えるんだなと」

 ―個人的人気にもこだわらない?

 「僕が入り口になってくれればいいんで。自分を入り口にどんどん他の選手のファンになってくれていい。もちろん、自分のファンになってくれるのが一番うれしいんですよ。でも、別にそこは何も思わないんで」

 ―DDTでは「路上プロレス」が話題に。本格的にエンターテインメントに振り切った部分も生まれた―

 「路上プロレスっていうのは一番始めにやったのは、2008年。自分の一番仲のいいプロレスラーの中澤マイケルと一緒にアメリカに行って。普通に試合した後に、学園祭をやっている最中の大学の食堂みたいな所にいきなり乱入して、いきなりプロレスをやるっていう。自分たちのプロレスが一般の人、しかも対外国人にでも通用するのかなっていうのを知りたかった。リングがなくてもいいと思ってスタートして。自分はちょっと自信があったんですけど、結果、ものすごい盛り上がりましたね。それがきっかけですね。高木さんは勘が良くて、その映像をすぐにユーチューブとかに上げて評判になった。日本に戻ってきた1週間後くらいには今度は本屋プロレスをやろうってなった。日本で初めて」

 ―リングがなくても見せられる自信があった?

 「小学5年の時にやっていたのが路上プロレスなんで。究極、リングいらないんじゃないかって。リングがないものはプロレスじゃないって考えている人もいると思うんですけど、僕は何がプロレスかって聞かれたら、人に影響を与えたり、感じてもらうことだと思う。自分を表現する一番の場所だと思うので。リングがなくても表現できるなら、それはプロレスなのではないかって思う。見た人が何かを感じてくれたらいい」

 ―エスカレートして自動販売機の上からのダイブや展示車の屋根からのダイブもやってきた―

 「路上プロレスが認められて、広まってきて。今ではいろいろな人がやるようになりました。初めてやったのは僕ですけど、一番最初のコンセプトと今の路上プロレスは変わってきて、今の形ではやりたいとは思ってないです。今は路上プロレスっていうものをやりますよと呼びかけてお客さんを呼ぶ、あくまで手段。路上プロレスのファンに向けてやっています。それは通用するっていうのは、もう分かったんで」

 ―全てはプロレスを広めるため?

 「プロレスに一生触れないで亡くなって行く方も絶対いるはずなんですよ。一度も見ずに。でも、一瞬でも見てもらいたい、プロレスに触れてもらいたいってのがあるんで、人の一番多いところでプロレスをやりたい―。それが僕がやり始めた路上プロレスの一番最初の根本的な理由です」

 ―なるほど―

 「路上でやると、一般人も視野に入れてしまうというか。強制的に見てしまうじゃないですか。半裸のヤツがいたら、えっ?てなるけど、そこでちょっとでも興味を持ってもらえたら、ちょっと調べてもらえたら、少しでもプロレスのファンが増えるんじゃないかなって。きっかけ作りですね」

 ―人のいる所にこっちから行ってやろうと―

 「そうです、そうです。絶対に盛り上げられる自信があったので。自分の中で。人が一番多い所でプロレスをやりたいっていうのを、ずっと自分は常に言っていて。渋谷のスクランブル交差点だったり、山手線が一番、人が多いんじゃないかってことで、そこでやりたいって、ずっと公言しているんです」

 ―渋谷も山手線も実現させたい?

 「実現できるなら、いつでもやりたいって気持ちあります。許可だったり、いろいろありますけど…。でも、路上プロレスやりますよって発表もせずにゲリラでしかやらないです。日本がOKであれば」

 ◆飯伏幸太(いぶし・こうた) 1982年5月21日、鹿児島・姶良(あいら)市生まれ。35歳。キックボクシングや新空手に熱中後、2004年7月、DDT東京・後楽園ホール大会でのKUDO戦でレスラーデビュー。09年からは新日本プロレスに参戦。ケニー・オメガとのタッグチーム「ゴールデン☆ラヴァーズ」で活躍。11年にはIWGPジュニアヘビー級王座を奪取。13年、DDTと新日のダブル所属を発表。15年にはAJスタイルズの持つIWGPヘビー級王座に挑戦するなどエース格に成長も16年2月、両団体からの退団を発表。個人事務所・飯伏プロレス研究所を設立し、フリーランス選手として各団体のリングに立つ一方、路上プロレスなどの活動も。愛称は「ゴールデン☆スター」。181センチ、92キロ。

 ◆フェニックス・スプラッシュ 飯伏がフィニッシュホールドとして使用する難易度抜群の空中技。コーナー最上段でリングの外を向いた状態から踏み切り、空中で半ひねりしながら450度前方回転してリング上に横たわった相手にボディープレスをする技。故・ハヤブサさんが開発し、得意技としていた。

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