【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈2〉新日本のタブーを破った前座時代】

2018年4月10日11時50分  スポーツ報知
  • 最後のムーンサルトを決めフォールする武藤

 武藤敬司が初めてムーンサルトプレスを出した1984年。新日本プロレスは激震の渦中にあった。

 同年3月に前田日明、ラッシャー木村らが4月に旗揚げする新団体「UWF」へ参加するため、新日本を離脱。さらに6月には藤原喜明、高田伸彦(現・延彦)もUWFへ移籍した。決定的なダメージとなったのは、9月だった。「ブラディファイトシリーズ」を終えた直後に長州力、アニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭の維新軍団が離脱。この動きに他のレスラーも追随し、総勢13人もの大量離脱となった。長州は、「ジャパンプロレス」を設立し85年1月から新日本の最大のライバルでジャイアント馬場が率いる「全日本プロレス」へ参戦した。

 武藤がデビューしたのは、長州らが大量離脱し団体の屋台骨が大きく揺らぐ危機の直後だった。ムーンサルトプレスは、そんな時代の激震の中で誕生した。それまで、新日本は前座では派手な技を使ってはいけないという不文律、あるいは暗黙の了解があった。前座は、アントニオ猪木が掲げる「ストロングスタイル」の原型と言える道場でのスパーリングの延長線上を武骨に愚直に試合で披露していた。それだけにトップロープからバック転で宙を舞う月面水爆が前座試合で飛び出したことは、衝撃的だった。

 「ちょうどUWFとジャパンができて、長州さんとか先輩方がいなくなってね。そのタイミングだからある意味、自由にできた」

 新日本の歴史を変えるほどのムーンサルトだったが、選手の大量離脱で痛手を被った新日本は、前座レスラーのスタイルに口を出すほどの余裕はなかった。団体の危機がデビュー間もない時に月面水爆が生まれた背景にあった。実際、猪木、坂口征二、藤波辰己(現・辰爾)ら幹部レスラーは無反応だったという。それどころから、当時、若手の教育係だったドン荒川、クロネコからも叱られることもなく注意を受けることもなかった。

 「暗黙の了解は暗黙だからね。このころは、猪木さん、坂口さんは上過ぎて、こっちまでこんなオレたちみたいな下の選手まで視界が届いてないから何も言わなかった」

 実際、技の規制はなかったという。

 「使っちゃいけないとかなかった。昔のスタイルは、試合を見て盗めっていう感覚。技を教えたりする手ほどきなんか先輩はしなかった。スパーリングはやらされたけど、相手のためじゃなく自分のためにやっていた。個々人が独立していた」

 ただ、前座からメインイベントまでの流れは確かにあった。

 「今はお客さまを入れないで練習するけど猪木さんの時代は逆だった。試合が始まるのが18時30分なのに猪木さんは18時ぐらいまでリングに上がってスパーリングやっていた。それを早く会場に来たお客さんはずっと見てた。あれは、新日本のスタイルを示す上でのひとつのパフォーマンスだった。その中でオレたちの1試合目で地味な展開から試合が進むにつれて展開はドンドン派手にいった。猪木さんが若くなくなってからそうじゃなくなったけどね」

 試合前の練習から前座、そしてメインまでの流れは確実にあった。しかし、選手が抜けた影響で今までにない自由が生まれた。

 「試合は比較的に自由にやっていいっていう感じだった。それでオレは伸び伸びやらせてもらった。ムーンサルトもそうだけど、側転してのエルボーとかね。これは、橋本(真也)とか蝶野(正洋)とかにはオレの発想はなかった。だいたい、オレの自由はそっちの方向に行ったけど、橋本の自由は違う方向の自由にいきやがって。よく人をここまで蹴られるかって(笑い)」

 ただ、最近、長州力にこう言われたという。

 「同じ仕事で名古屋から帰る新幹線で長州さんと隣の席になって“敬司。お前がプロレス壊したんだ。お前があんなことやったから、お前のマネをしたヤツがいっぱい増えた”って言われたよ」

 前座レスラーの枠を超えた武藤。一方であまりの突発的な行動でベテランの星野勘太郎を怒らせた事件を起こした。(敬称略)

 ◆武藤 敬司(むとう・けいじ)1962年12月23日、山梨県富士吉田市生まれ。55歳。1984年4月に新日本プロレスに入門。同年10月にデビュー。以後、IWGPヘビー級、IWGPタッグ、三冠ヘビー級王座など数々のタイトルを獲得。89年4月に米国のWCWで化身であるグレート・ムタが誕生。2002年1月に新日本を退団し全日本プロレスへ移籍。同年10月に社長に就任。13年5月に全日本を退社し同年7月にWRESTLE―1を旗揚げし現在に至る。身長188センチ、体重110キロ。

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