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【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈8〉長州力のUターン、なぜか猪木側に入った世代闘争】 

2018年4月16日11時50分  スポーツ報知
  • 長州力

 1987年。24歳の武藤敬司は、新日本プロレスに生まれた新しい波にのみこまれた。

 きっかけは春に新日本プロレスへ復帰した長州力だった。3年前に大量離脱し全日本プロレスに参戦した革命戦士は、設立したジャパンプロレスを離脱しマサ斎藤、小林邦昭らと共にUターン復帰した。

 長州は、新たな展開を打ち出した。IWGPシリーズ最終戦の6月12日。両国国技館のリング上で世代闘争をぶち上げた。新日本、長州軍、UWFと選手が飽和状態でリング上のテーマがぼやけていた状況に、猪木、斎藤、藤原喜明ら「ナウリーダー」と藤波辰巳、長州、前田日明らの「ニューリーダー」が激突する世代闘争を掲げたのだ。

 この抗争のはざまで武藤の存在は、宙に浮いた。その象徴が8月19、20日に両国国技館2連戦となった「サマーナイト・フィーバーイン国技館」だった。プロレス界初の両国2連戦の初日は、ナウリーダーvsニューリーダーの5対5イリミネーションマッチ。2日目は、猪木、武藤組vs藤波、長州のタッグマッチがメインだった。チケットは2日間ともに超満員札止めだったが、武藤にとっては苦しみの2連戦だった。世代闘争にもかかわらず、なぜか、24歳の武藤が猪木らのナウリーダーに組み込まれたからだ。

 「オレなんかあの時、ニューリーダーよりもっとニューリーダーだったんだよ。だけど、オレだけ年寄りに入った。何にでも順応していたから、ある意味、本当に便利屋だったんだと思う」

 マッチメイクに拒否することはできなかった。

 「あのころは、意志なんてなかったからね。当時は業界全体が封建的だったしね。そういう意味では米国の方がフリーかもしれない」

 初日は、最後にナウリーダー組は、武藤一人だけが残ってニューリーダー組で残った長州、藤波と1対2の状況で対戦。最後は藤波の原爆固めに敗れ去った。続く2日目は、さらなる苦しみが襲った。

 「2日目は、猪木さんのパートナーは、当初、Xって発表されていて、本当はマサさんが組むはずだった。ところが、マサさんがパスポートなくして日本に入ってこれなくなって、急きょ、“お前行けって言われて”ね」

 世代闘争のテーマとかけ離れた武藤の存在に会場はブーイングに包まれた。

 「客席から帰れコールだよ。そんな中で試合するのは精神的につらかったよ。まぁ、そういう経験もしているから、その後の武藤敬司が構築されていくんだけど。そのころは欲も大それた夢もなかったから、ただつらかったね」

 傷を負ったのは心だけではなかった。デビューから3年。ムーンサルトを舞い続けてきた代償から右膝に痛みを覚え始めていた。

 「秋ぐらいから右膝が引っかかるようになった。暮れになると完全に膝の調子が悪くなった」

 膝のケガで12月27日、両国国技館で行われた「イヤーエンド・イン国技館」は欠場。ビートたけし率いるTPGの登場で観客が大暴動を起こす大会に武藤は不在だった。

 「膝が痛いからあの大会は休んだ。それで1月に半月板除去の手術をやった。あれが初めての手術だった。今は半月板取らないらしいね。当時はスポーツ整形みたいなのはなくて、除去はするけど、リハビリの施設なんかがなかった」

 ついにメスを入れた右膝。長い長いケガとの戦いの始まりだった。(敬称略)

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