【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈30〉乗り気じゃなかった全日本プロレス参戦】

2018年5月8日11時50分  スポーツ報知
  • 川田利明にムーンサルトプレスを決める武藤敬司

 20世紀最後の日に衝撃のスキンヘッドに変貌した武藤敬司は、2001年1月28日、全日本プロレスの東京ドーム大会のリングに立った。

 新日本プロレスの永遠のライバルだった全日本。しかし、99年1月31日に創始者のジャイアント馬場が急逝し、オーナーの馬場元子と社長でエースだった三沢光晴の対立が表面化した。2000年6月に三沢ら選手、スタッフが大量離脱し新たに「プロレスリング・ノア」を旗揚げし、所属選手は川田利明、渕正信の2人だけという存続の危機に立たされていた。

 この苦境に90年に離脱した天龍源一郎が電撃的にUターン参戦し生き残りを模索していた。一方の新日本も当時、混乱が始まっていた。99年に社長が坂口征二から藤波辰爾に交代。武藤が米国に遠征していた2000年4月には橋本真也が「負けたら引退」と銘打った試合で小川直也に敗れ、その処遇が宙に浮いた。橋本は「プロレスリング ゼロ」という団体内の独立組織に所属する形を取ったが、新日本の意向を無視する行動を取り解雇となり「プロレスリング ゼロワン」を設立した。橋本の退団は84年のデビューから同じ道を歩んできた闘魂三銃士の事実上の終止符だった。

 ドーム興行の成功に軸を置く新日本は、当時、オーナーのアントニオ猪木の意向に反し大仁田厚を参戦させ、長州力の復帰も実現した。当時、フロントでマッチメイクを担当していた企画部長の永島勝司が新たに企画したのが「新日対全日」の対抗戦だった。2000年夏から戦いが始まったが、武藤が参戦した全日本の東京ドームは、「ジャイアント馬場三回忌追悼興行」と銘打たれた。メインイベントは敵対していた全日本の川田利明と新日本の佐々木健介が初タッグを結成し、天龍、馳浩と対戦するなど、対抗戦の色合いは薄れ、両団体の合同興行というムードが漂っていた。

 武藤のマッチメイクは、ハワイ出身のレスラー太陽ケアとのシングルマッチだった。ケアは全日本でレスラー修行し、社長の馬場元子が将来を期待していた選手だった。しかし、武藤は、出場を拒否した。

 「全日本との交流は、一番最初に永島のオヤジが間に入って進めていたんだ。それで、オヤジから“馬場さんの記念試合をドームでやるから出てくれ”って言われたけど、当時のオレは、全然、全日本には興味なかったからさ。“相手は誰?”って聞いたら“太陽ケアっていうのとやってくれ”って言うから、“誰それ?嫌だよ”って断ったんだと。だって、メリット感じなかったから自分に。そんな知らないヤツと戦ってもどこにメリットが生まれるんだっていう価値を感じなかった」

 一度は拒否したが、永島の説得は執拗だった。

 「どうしてもっていうから、仕方なく、まったく予備知識がない状態で出て行ったんだよ」

 初めて参戦した全日本プロレスは、そんな消極的な気分でリングに上がったという。しかし、この東京ドームで武藤は、新たな武器を見つけた。(敬称略)

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