マサ斎藤さん死去…猪木と“巌流島の戦い”パーキンソン病闘病中

スポーツ報知

 アントニオ猪木との死闘「巌流島の戦い」などで伝説を築いたプロレスラー、マサ斎藤(本名・斎藤昌典=さいとう・まさのり)さんが14日に死去したと、所属事務所の健介オフィスが16日、発表した。75歳だった。斎藤さんは2000年にパーキンソン病を発症し、リハビリに励んでいたが、事務所によると14日未明に容体が急変した。通夜・告別式は家族・関係者と都内で行う予定としている。

 「Go For Broke!(当たって砕けろ)」をモットーに、武骨なファイトスタイルでリングを盛り上げた昭和の名レスラーが旅立った。

 関係者によると、斎藤さんは2020年東京五輪の聖火ランナーになることを目指してリハビリに励んでいたが、14日未明に容体が急変。同1時5分に息を引き取った。倫子夫人はマスコミ各社に向けたファクスで「穏やかながらも、新たなチャレンジへ向かうような、マサ斎藤らしい力強い旅立ちでした」とつづった。

 斎藤さんは1964年の東京五輪でレスリング・フリースタイルヘビー級の日本代表として出場し、65年に日本プロレスに入門した。180センチ、120キロの鍛え抜いた肉体で相手にぶつかっていくスタイルで活躍し、68年からは米国にも進出。ヒール(悪役)として活躍した。帰国後は新日本プロレスを経て、長州力の維新軍に合流し、ジャパンプロレスに参加。84年に米国で同僚レスラーの警官暴行事件に巻き込まれ有罪となり、1年半服役したが、この間に得意技の「監獄固め」を開発したと語っていた。

 斎藤さんの人気を不動のものにしたのが、87年10月4日にアントニオ猪木を相手に、ルールなし・レフェリーなし・観客なしの時間無制限で戦った「巌流島の戦い」。激しい流血戦で、照明代わりのかがり火に両者がたたきつけ合った死闘は2時間5分14秒、猪木の「裸絞め」で斎藤さんが失神。TKO負けとなったが、昭和プロレスを代表する名勝負として語り継がれている。

 90年には世界3大王座の1つとされるAWA世界王座を獲得し、99年に現役を引退。その後は長州力のWJプロレス旗揚げに参加し、佐々木健介率いる健介オフィスのアドバイザーなどを務めた。ユーモラスで味わい深いプロレス解説者としても愛された。

 昨年4月に大阪で行われた興行でリングに上がり、ノア所属の弟子、マサ北宮(29)を激励したのが公に見せた最後の姿となった。倫子さんによると、来年のリング復帰へ向けて懸命のリハビリを行う姿は「想像を絶するほどつらく厳しいものでした」という。「当たって砕けろ!」の精神を貫いた生涯だった。

 ◆マサ斎藤(まさ・さいとう)本名・斎藤昌典(まさのり)。1942年8月7日、東京都生まれ。明大在学中の63年、レスリング日本選手権で2冠となり64年の東京五輪にフリースタイルのヘビー級で出場。65年6月に日本プロレスでデビュー。68年に渡米し、当時のAWAなどで活躍。74年以降は定期的に新日本プロレスに参戦。87年10月、アントニオ猪木との「巌流島の戦い」以降は日本に拠点を移し、99年2月、日本武道館でのスコット・ノートン戦で引退した。

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