船木誠勝、デビュー33周年で明かす新日本プロレスとアントニオ猪木からの鉄拳制裁 

スポーツ報知
船木誠勝

 今年でデビュー33年を迎えたプロレスラー、船木誠勝(49)が30日、大阪のエディオンアリーナ第2競技場(大阪府立体育会館)で「甦ったサムライ船木誠勝デビュー33周年記念大会」を開催する。1984年に新日本プロレスへ入門し85年3月、当時史上最年少の15歳でデビュー。以後、UWF、プロフェッショナルレスリング藤原組へ移籍しパンクラスを旗揚げ。2000年5月にはヒクソン・グレイシーと対戦するなど波乱万丈のレスラー人生を歩んできた。「WEBスポーツ報知」では船木自身が思い出に残る2つの時代に焦点をあて、2日間に渡り連載します。

 デビュー33年。今、船木はこう思う。

 「最近20周年とか25周年とか選手の大会がありますが、それを考えると33周年って長いなって思います。途中、7年あいているんですけど、ここまで再起不能になるようなケガすることなくやって15歳からやってこられたのは本当に良かったと思っています」

 新日本でデビューしUWF、藤原組、そしてパンクラス。ヒクソン戦での引退を経て復帰…。紆余曲折のレスラー人生の中で鮮やかな記憶が甦ってくるのが2つの時代だという。

 「最近、新日本プロレスの時のことを結構、思い返すことが多いです。入門して出て行くまでですね。あとUWFの短いんですけど2年間。あの辺の話題が最近、みんな本を書いて出ているんで、その度にその当時の自分はどうだったかなぁみたいな感じで思い起こすことが多いです」

 青森県弘前市で生まれた。幼い頃にテレビで見たタイガーマスクに憧れプロレスラーを志し、弘前大学教育学部付属中学を卒業し、15歳で新日本プロレスに入門した。同期は武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、野上彰(現AKIRA)と後のプロレス界を支える錚々たるメンバーだった。

 「入門する前は正直、新日本プロレスって付いていたので日本の国が運営する国営の会社だと思っていたんです。自分はまだ中学生ですから、団体名に新日本って日本が付いているんで国営の会社だと思っていてテレビも出てますから完全にここに入ったら一生涯安泰だなぁって思っていたんです。ところが、入った途端に自分の新日本プロレス像っていうのが変わってしまいました。まず、あのころは新日本プロレスがもの凄く揺れていた時期だったんで、まずUWFができて、ジャパンプロレスができて、自分たち若手、新人がどんどん先にデビューさせられていた。武藤さんとか橋本さんとか蝶野)さんとかあの辺は確か入って3、4か月でデビューしました」

 船木が入門した1984年は、3月に前田日明らが離脱しUWFを旗揚げ。その後、藤原喜明、高田伸彦(現・延彦)、木戸修らがUWFへ移籍した。さらに9月には長州力らが大量離脱しジャパンプロレスを設立し85年からライバルの全日本プロレスへ参戦するなど激震が続いた年だった。

 「リング上も、入門した初っぱなから第2回IWGPで暴動が起きまして、その前後に選手の離脱があって、自分はその後にデビューしたんですけど、直後に大阪城ホールと両国国技館で暴動、暴動で自分が新日本にいた4年間で3回暴動があったんです。リングの外もあんまり安定していなくて、リングの上もマシーン軍団とか海賊とかその後、UWFが帰ってきたりとかジャパンが帰ってきたりとかすごかったんですよ。なんか落ち着かなかったですね。ここの会社でいいのかなっていう疑問がずっとありました」

 激動の中で1985年3月3日、後藤達俊戦でデビューした。当時、選手の離脱が相次いだ新日本は、若手の底上げを目指し若手選手だけのリーグ戦「ヤングライオン杯」を開催。当初、船木はエントリーされていなかったが、野上彰が負傷欠場したため、急きょ、リーグ戦の参加が決まり、デビューの後藤戦はリーグ戦の公式戦だった。15歳11か月でのデビューは当時の史上最年少記録だった。

 「当時は10代の若手なんであんまり自分が期待されている感覚もなく試合が終わってから怒られる回数も多かったですね。(アントニオ)猪木さんからも怒られました。試合中に猪木さんが控室から自分のことを怒鳴るんです。試合をやりながら、なんかこう怒っている声が聞こえるんです。それが試合の途中からだんだん自分に向けられていることに気づいて、控室に帰ろうとしたら猪木さんが立っているんです。そこで、いきなり張り手パーンってやられて“なんだ今の試合は”って感じでした。それから毎日、星野(勘太郎)さんが自分の試合を監視するようになったんです。それが17歳ぐらいまで一年ぐらいずっと続きましたね」

 鬼のように恐ろしかった猪木からの鉄拳制裁。当時はなぜ怒っているのか理解できなかったという。

 「試合で相手に遠慮していたからだと思います。先輩との試合なん、あのころの若手は自分一人だけ年が15、16歳で一番近い人でも3つ違うんですよ。試合に年下という遠慮が多分ものすごい出ていたと思うんですね、今思えば。それが猪木さんから見てリングの上は必要ないと思ったと思う。ただ、当時はまったくそれに気づいていなかったんです」

 猪木から怒られ、星野に試合を監視される日々。憧れて入ったプロレス界だったが、自分には向いていないと思っていた。失意が希望に変わるきっかけは、離脱していたUWF勢のUターン参戦だった。経営不振に陥ったUWFは85年12月に業務提携を結び86年1月から新日本へ復帰することになる。その中にはかつて道場で徹底的にスパーリングを教えてくれた藤原がいた。関節技の鬼と呼ばれた男との再会が船木をプロレスラーとして覚醒させた。

 「正直あんまりプロレスが向いていないのかなと思った。ただ青森へ帰ってもろくな事にならないですから、帰れない。ここで何とか生き残るしかないなと思って、それで頑張ろうと思った。そんな時に途中で藤原さんが帰ってきたんです。以前のように一緒にトレーニングをして自分がどんどん強くなっていくのが分かったんですね。その時にようやく自分でやっていけるような自信が付いた」

 道場で強くなる自分を実感すると猪木を激怒させた試合での遠慮はなくなった。

 「それまでは、何もなくてどうすればいいのか分からなくて試合のやり方とか誰も教えてくれなかった。テクニックは盗んで覚えろっていう時代なんで、当時はずっと同じ場所をウロウロウロウロしていた記憶があります。だけど、藤原さんが帰ってきて、自分がどんどん強くなっていくのが分かって先輩相手でもちょっとやり過ぎかなぐらいでちょうどいいと思うようになった。ドロップキックで先輩のアゴを折ったこともありましたし、そういうのもあったんで強さって一番必要だなと思いました。そういうのを今になって振り返りますね。プロレスラーにもなってないようなそういう時のことって一番思い起こします」

 プロレスラーとして覚醒したヤングライオン時代。さらなる激動が1989年に訪れる。UWFへの移籍だ。

 (取材・構成 福留 崇広)

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