ラジカセで録音、暗記した古舘節…「コブラツイストに愛をこめて」著者・清野茂樹アナに聞く【前編】

2018年11月13日16時29分  スポーツ報知
  • 著書「コブラツイストに愛をこめて」を上梓したフリーアナ・清野茂樹さん

 フリーアナウンサー・清野茂樹さん(45)の著書「コブラツイストに愛をこめて」(立東舎)がプロレスファンを中心に話題を呼んでいる。プロレスを実況するために、30歳を過ぎて広島エフエム放送のアナ職からフリーに転身。今では国内最大手の新日本プロレス、世界最大のプロレス団体・WWE、世界最高峰の総合格闘技団体・UFCと「世界3大メジャー」の実況を史上初めて達成したアナとして、マニアからも強い支持を得ている。一冊に込めた思いを聞いた。(構成・加藤 弘士)

 「金曜8時」に猪木や長州、タイガーマスクやホーガンが魅力的だった80年代。全国津々浦々、小学校の休み時間といえば、廊下でのプロレスごっこが見慣れた風景だった。そんなプロレス大好き少年の一人だった清野さんだが、中継ではリング上のレスラーよりも輝いて見える人がいた。「過激なアナウンサー」古舘伊知郎さんである。

 「僕は元々虚弱体質で体が弱いこともあって、レスラーになるのは絶対無理だと早い段階で思っていたんです。ディック・マードックが木村健吾(現・健悟)さんの髪の毛をわしづかみにして、場外へ引きずり出して、首だけをエプロンサイドに持って行って、喉にエルボードロップをドスンとやった瞬間に、『これはもう俺には絶対無理だ』と思って(笑)」

 ビデオデッキがそれほど普及していなかった時代。清野さんは金曜8時になるとラジカセをテレビの前に置き、古舘さんの実況を録音した。ノートに書き留めて暗記し、休み時間のプロレスごっこで披露した。

 「83年頃の古舘さんの言葉が一番ほとばしっていた気がします。第1回IWGPの『渇ききった時代に送る、まるで雨ごいの儀式のように、猪木に対する哀しげなファンの声援が飛んでいる』とか。あとは四字熟語があふれかえっていて。『リング上の一寸先は闇であります。まさに五里霧中だ』と聞くと『五里霧中ってどんな意味だろ』と辞書を引いて。日本語を覚える上で、先生であり教材でした。僕にとっては『家出のドリッピー』ですよ(笑)」

 高校では吹奏楽部に在籍する一方、プロレス専門誌を熟読する日々を過ごした。青学大に入学後はギター部に所属したが、プロレス中心の生活は変わらなかった。秋になるとレスラーを学園祭に呼び、トークショーを開催した。

 「高校時代によく週プロで学園祭の記事を読んでいて、大学生になったらトークショーをやりたいなあとずっと、思っていたんです。青学は学校が認可したサークルを作らないと、そういうイベントができない。なのでプロレス研究会をそれ用に起ちあげて、全く興味のない先生を見つけて、ハンを押させて(笑)。初開催は大学3年の時。94年、パンクラスの船木誠勝さんを呼びました。鈴木みのるさんとシングルマッチを行った2週間後ぐらいで、キャパ300人の教室が満員になったんです」

 司会はもちろん清野さん。必死にレスラーの良さを引き出した。普段は静穏な教室が、沸きに沸いた。

 「船木さんも『他団体で誰と闘いたいですか?』と聞くとリップサービスで『パンツの色だと、赤と黒と緑です』と答えてくれて。後で聞いたら『田村、石沢、三沢』と明かしてくれました(笑)。それを週プロが取り上げてくれて。翌年には青学で一番大きな800人入る教室に川田利明さんを呼んで、そこも満員になったんです。その時も全日本の武道館大会ににゲーリー・オブライトが初参戦して、最初に川田さんが迎え撃った数日後だったので、いいタイミングだったんです」

 青学大3年時、就職活動を前に清野さんは決断した。俺も古舘さんのようなアナウンサーになって、プロレス実況をやるんだ―。

 「当時、プロレス実況がやれる会社は日テレかテレ朝しかない。スカパー!もまだありませんでしたから。でも、認識が甘かった。キー局ではからっきしダメで、アパートの郵便受けにハガキが一枚届いて『書類審査の結果、今回は不採用となりました』と。今考えると、志望動機に『プロレスの実況』と書くわけですよ。あれがよくなかったですよね。そんなヤツいらないという(笑)。どこの放送局に行っても『プロレスの実況がやりたいです』『はい、どうもありがとうございました』と、それで終わりのような感じでした(笑)」

 それでも幼き頃から古舘節に憧れ、ノートに書き留めて暗記した経験は自身を裏切らなかった。95年7月、広島エフエム放送から内定が出た。96年4月からは広島の地で、アナウンサー生活が始まった。

 「主に音楽番組を担当しました。中高生向けのチャート番組から始まって、夕方のとがった、おしゃれな音楽番組、それから最後の2年は朝の番組をやっていましたね。ですから、ミュージシャンのインタビューも結構やらせていただきました。矢沢永吉さん、宇多田ヒカルさん、GLAYさん、山下達郎さん…ラッキーだったのは、放送局が『小さな球団』だったから、とりあえず打席に立たせてもらえた。割と4番も任された。日テレやテレ朝に入っていたら、こうはいきません。やりながら覚える感じでした。音楽業界も景気が良くて、98年が一番CDが売れた時代なんです。いい時代にやらせていただいたのはラッキーでしたね」

 しかし、プロレスからは離れられなかった。入社2年目には大槻ケンヂをゲストに招き、プロレスの番組を企画制作してオンエアした。するとそれが、民放連の番組コンクールで賞を取った。社内でも「プロレスの清野」は徐々に認知されていった。アナウンス技術も上達し、看板アナになりつつあった32歳の冬。フリー転向を決断した。

 「一言で言うと『気が済まない』(笑)。何のためにアナウンサーになったのかといえば、音楽番組をやるためでも、ラジオ局の社員になるためでもない。プロレスをやるためにアナウンサーを目指したので、そこは迷いはありませんでした」(後編に続く)

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