優勝賞金3500万円を全額寄付したボートレーサー守田俊介〈3〉「家族のために頑張らないと」養成所に入所

スポーツ報知
ボートレーサーを目指したきっかけ、寮生活での厳しさなどを語る守田

 守田は1975年8月12日生まれ。父親が勤務する運送会社の社宅があった京都市で幼少期を過ごした後、宇治市の小中学校に通い、府立久御山高に進んだ。夏休みには初めてのアルバイトも経験した。「お弁当を作る工場。まあまあ寒いし延々と5時間。1週間ぐらいの予定で申し込んでいたけど、3日か4日で逃げました。唯一、社会に出て働いた経験ですが、ヘタレです」と苦笑いした。

 高校在学時にボートレーサーを志したのは、家庭環境の変化だった。「高1、2ぐらいの時に親が離婚して。多分、そこがきっかけだと思う。妹は6歳、弟は8歳違い。僕が高校生で、あいつらが小学生。自分が勝手に親代わりみたいな立場に思っていた。高校を出て働くのが普通ですが、何かチャレンジできることがないかと思い始めた」

 母子家庭となり、長男は将来を案じ、進路を模索した。「たまたま新聞にボート選手募集中と載っていて、申し込みの期日が迫っていた。応募資格の身長が170センチ以下で、伸び盛りの僕は168・5センチ。『せめて高校は卒業しなさい』とオカンに言われたけど、試験をとんとん拍子に受かり、奇跡的、運命的に応募資格最年少で入所できた」

 当時、レーサー養成所は山梨県の本栖湖にあった。寮生活の厳しい訓練が行われた。冬は氷点下10度にもなった。「もう一度入所と言われたら無理。高校も辞めるし、帰ったって何も残らないし、我慢するしかなかった。(日本モーターボート)競走会の方はウチの家庭事情を理解してくれて、応援してくれた。家族のために頑張らないといけないという一心だった」。途中で挫折、退所する訓練生も少なくないが、守田は1年2か月にわたる訓練を経て、94年の春にボートレーサーとしてデビューした。

 スタートの速さ、ボートを操る腕は天才的で、すぐに業界では知られた存在となった。9年目には一流の証しとなるG1初タイトルを手にしたが、最高峰のSGでは予選、準優勝戦敗退ばかり。「心の奥底には取るのが夢とは常に思っていたけど、SG実績がないし、惜しかったという大会自体が少なかった」と苦闘を回想する。ようやくチャンスが巡ってきたのは何と22年目だった。(佐々木伸)

 ◆ボートレーサー養成所 ボートレース草創期は琵琶湖の養成所、その後は各地のレース場を利用して選手養成していたが、1966年の「本栖研修所」(山梨県・本栖湖)の開所を機に選手養成を一元化。守田は同所でレーサーの基礎を学んだ。01年に本栖研修所を閉所し、「やまと競艇学校」(福岡・柳川市)へ移転。17年に現在の「ボートレーサー養成所」へ名称を変更。17年4月の入学者から、養成訓練にかかる費用を無償化。応募資格、入学には一般試験と特別試験があり、50人程度の募集(年2回)で、近年は受験者が1000人超と難関。

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