ジャパンカップ1984「カツラギエースの奇跡」〈2〉シービーとルドルフの誤算

スポーツ報知
スローペースの逃げで強敵を幻惑したカツラギエース(右)(中は2着ベッドタイム、左は3着シンボリルドルフ)

 快調に逃げ行くカツラギエース。対照的に、1番人気を背負ったミスターシービーは向こう正面で20馬身以上離れた最後方にいた。前年(83年)の皐月賞、日本ダービー、菊花賞を強烈な末脚で制した牡馬クラシック3冠馬にとって、そこは定位置。その並外れたエンジンに火がつくのはいつか、そろそろか。馬券を握り締めるファンは当然のこと、同馬を管理する調教師の松山康久も固唾(かたず)をのんで見つめていた。

 84年の第4回JCには3歳シンボリルドルフ、4歳ミスターシービーの2世代の3冠馬が参戦。「SM」と呼ばれた2頭は日本の希望の星。これで勝てなければ日本馬は今後10年は勝てない、いや、永久に勝てないとまで言われていた。

 海外勢を一気にごぼう抜きする瞬間は、最後まで訪れなかった。ミスターシービーの末脚に火がつくことはなかった。松山は、ジョッキーの吉永正人に出した指示を思い返す。「いつものペースでやってくれ。ただ、馬群の後ろに離されないようにつけてくれ、とジョッキーに言っていた。でも、スロー(な展開)になってしまった。脚は使っていたはずだが、ペースが遅くて不完全燃焼になった」

 大逃げを打っているように見えたカツラギエースだが、決してオーバーペースではなかった。先行馬が十分にスタミナを残した状態で直線に入られては、4頭をかわすのが精いっぱい。前走の天皇賞・秋を制して4冠馬となっていたミスターシービーは、デビューから12戦目で初めて、2ケタ着順の10着に敗れた。

 松山はレース前から、カツラギエースに一目置いていた。実際、83年の京都新聞杯(4着)、84年の毎日王冠(2着)では敗れていただけに「もまれ弱い面はあるけど、ペースが合えばいい走りをするのでライバル視していた。2400メートルを逃げ切るのは大変だが、ノーマークでもあったし、うまくかみ合ったのもあると思う。リードホーユーが3歳で有馬記念を勝ったり、この世代は強かった」

 誤算があったのは、シンボリルドルフも同じ。のちに7冠馬となり「皇帝」と称された“最強馬”だが、京都の菊花賞から中1週で東京へ移動するハードスケジュール。調教師の野平祐二は「追い切った後、少し下痢気味になった。神経性のものでしょう。多少、無理があったようです。出否を迷ったほどなんです」とレース後に告白。騎手の岡部幸雄は「カツラギエースが楽に行っていたのは分かっていたが、ベッドタイム(2着)が前にいるし、人気を背負っていることもあって行くに行けなかった」と判断の迷いを悔やんだ。デビューからの連勝は8でストップ。それでも好位から力強く伸びて3着と、実力は示した。

 日本が誇る3冠馬2頭が不発に終わり、生まれたドラマ。カツラギエースの陣営は、前走の天皇賞・秋での敗戦(5着)を踏まえ、秘密兵器を用意していた。(内尾 篤嗣)=敬称略=

 ◆ミスターシービー 1980年4月7日、北海道浦河町の千明牧場で生まれた黒鹿毛の牡馬。父トウショウボーイ、母シービークイン(父トピオ)。馬主は千明牧場。美浦・松山康久厩舎所属。通算15戦8勝。総獲得賞金は4億959万8100円。86年に顕彰馬に選出。

 ◆シンボリルドルフ 1981年3月13日、北海道門別町(現日高町)のシンボリ牧場で生まれた鹿毛の牡馬。父パーソロン、母スイートルナ(父スピードシンボリ)。馬主はシンボリ牧場。美浦・野平祐二厩舎所属。通算16戦13勝。総獲得賞金6億8482万4200円。87年に顕彰馬に選出。

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