世界の本田のきっかけは「圭佑も行ってみるか」星稜高恩師・河崎監督がプロへの扉開いた

スポーツ報知
紅白戦で、槙野(左)と激しく競り合う本田(カメラ・竜田 卓)

 第4回はW杯3大会連続出場となる日本のエースFW本田圭佑(31)=パチューカ=。星稜高2年の秋、恩師・河崎護監督(58)からの“ある提案”がプロへの扉を開いた。

 「圭佑も行ってみるか―」。本田が高校2年だった03年秋、1学年上のFW豊田陽平(33)=蔚山現代=がJ1名古屋に入団テストを兼ねた練習参加をすることになった。星稜では中心選手だった本田だが、U―16日本代表の国内合宿に1度呼ばれただけで世間の評価は決して高くなく、この時期はプレーも精彩を欠いていた。そんな本田に刺激を与えようと、河崎監督が名古屋に「もう一人見てほしい選手がいる」と頼み込み、豊田と一緒に練習参加が決まった。

 この運命の3日間がプロへの扉を開いた。左足のキックの精度、視野の広さ、そして物おじしない堂々としたプレーを、当時指揮していたブラジル人のネルシーニョ監督(67)が大絶賛。数日後、高校には“2枚”のプロ契約書が届いた。「実は名古屋からはすぐに来てくれって言われたんだよ。でもまだ2年生だし、さすがに今すぐは行けないと。それで名古屋は特別指定にしてくれた。圭佑も『お願いします』と言ってきたから認めたんだ」と河崎監督は回想する。

 2年の選手権直後からは名古屋のキャンプに参加。さらには韓国遠征にも帯同し、丸2か月プロとともに過ごした。「校長には『就職試験でございますから。一生を左右するものですから行かせてやってください』とウソをついて了解もらってね。でも彼の成長にとっては大きかったと思う」。当時の名古屋にはFKの名手だったFWウェズレイが在籍。「助走の仕方や壁の並べ方などを聞きました」と帰ってくると、とりつかれたようにFK練習に没頭。プロでも通用する武器を手に入れた。

 そして3年生となった04年11月に正式に入団が決定。契約を結ぶ直前には河崎監督に「将来は海外に挑戦したいという一文を入れてください」とお願いするなど、すでに世界を見据えていた。千載一遇のチャンスをつかんでプロになった男が、ロシアで集大成を見せつける。(井上 信太郎)

 ◆特別指定 正式にはJFA・Jリーグ特別指定選手制度。受け入れ先のJクラブの申請に基づき、日本サッカー協会が認定した選手は、所属チームに登録したまま、Jリーグ等の公式試合に出場可能となる制度。対象者は全日本大学サッカー連盟、高等学校体育連盟、第2種日本クラブユースサッカー連盟に所属している選手。1998年から強化指定選手という名称でスタート。

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