五輪&A代表兼任の先駆者トルシエ氏が警鐘…兼任は「不可能」「間違い」

スポーツ報知
身ぶりを交えて日本代表を指導するトルシエ監督(左は名波、右は城)

 日本代表の森保一監督(49)は、2020年東京五輪を目指すU―21日本代表との兼任の重責に挑む。両カテゴリーを兼務するのは00年シドニー五輪と02年日韓W杯で指揮したフランス人のフィリップ・トルシエ氏(63)以来。経験者であるトルシエ氏は、当時と現在では日本サッカーの置かれた状況が違うと分析し“二兎”を追う道は厳しいと指摘した。

 なぜ私はA代表と五輪代表の監督を兼任したのか。1998年に日本代表監督に就任するにあたり、W杯まで段階を踏んでチームを作り上げていくべきだと考えた。日本のポテンシャルを把握し、2002年は24~26歳の選手が中心になると導き出した。つまり4年後のチームを構築するために、少なくともU―20代表から見ていかねばならないというのが私の結論だった。

 同時に選手たちを同じ哲学の下で育てたかった。ひとつのマネジメント、共通のコミュニケーション、同じ組織の下で育てるために、スタッフは3つのカテゴリー(U―20、五輪、A代表)の中で流動的に仕事をした。作りたかったのは“ラボラトリー”(研究所)と呼ぶ組織だ。同じ意識を持ち、同じ考えでプレーできる選手をそこで形作っていく。

 大きなアドバンテージだったのは、選手のほぼ全員が国内組であったことで、それこそが成功の鍵だった。選手招集のために強制力のあるFIFAの国際Aマッチデーを利用する必要がなく、全てはJリーグと協会との間の調整だけで済んだ。リーグの試合後、日曜夜に選手を集め、水曜朝まで練習するミニ合宿をあらゆるカテゴリーで頻繁に行った。

 99年の世界ユース選手権(ナイジェリア・現U―20W杯)を経験した選手から7~8人が五輪代表に昇格した。シドニー五輪の後には十数人をA代表に組み入れた。00年10月のアジア杯を終えた時点では、35~40人のグループができあがっていた。そこから02年に向けて、私はベストチームを編成することができた。

 今の状況はまったく異なる。当時と同じことをするのは不可能だし、同じプロセスを踏もうとするのは間違いだと私は思う。まず、2年後に迫った東京五輪に膨大なエネルギーと集中力を注ぎ込まねばならない。その間は準備期間も含め、監督は五輪代表にかかりきりにならざるを得ない。しかし、A代表のアジア杯も半年後に迫っており、こちらも全力を挙げて準備しなければならない。

 問題は、両チームの間に何の共通性もないことだ。選手の重なりもない。現状、五輪代表からアジア杯の代表に入る選手は0人。逆にA代表から五輪代表にも一人も入らない。例え選んでも、所属する欧州のクラブがイエスとは言わないからだ。

 仕事も同じではない。今のA代表は、選手の大半が欧州組だ。試合の3日前にならないと代表に合流できない。監督はA代表と五輪代表のそれぞれに全力を傾けて専念すべきで、この(兼任)プロジェクトを展開するのはちょっと時期尚早だ。

 アドバイスを与えられるとすれば、西野監督がA代表監督に留まるよう、もう一度説得するべきだということだ。アジア杯を五輪代表で臨むのならば、一人の監督に全てを任せる一貫性は得られる。しかし勝つためのベストの選択とは言えず、日本は容認できないだろう。また世代交代も五輪の後に自然に行うべきで、無理やりチームを変えるべきではない。

 外国人監督でないならば、アジア杯に向けて西野監督が留任する事が大事だった。彼はW杯で何かを作り出した。だが、彼の仕事はまだ終わっていない。西野監督がA代表で森保監督が五輪代表。二人でコラボしながらやっていく方が、森保監督一人に2チーム預けるよりずっと大きな効果が期待できる。

 日本は今、大きな波に乗っている。それを壊してはならないと私は思う。(元日本代表監督)

 ◆トルシエ氏の兼任 98年9月、A代表と五輪代表の兼任監督に就任。99年の世界ユース選手権(現U―20W杯)ではFW高原直泰、MF小野伸二、稲本潤一、遠藤保仁らを擁して準優勝した。00年シドニー五輪ではMF中田英寿、DF宮本恒靖、高原、稲本、小野(予選のみ)らを選び、68年メキシコ市五輪以来32年ぶりに決勝トーナメント(T)に進出して8強。02年日韓W杯では、育成年代から指導してきた選手を中心にして、日本史上初の決勝T進出を果たし16強に入った。

サッカー

×