アジア杯に挑む異色の侍 フィリピン代表・佐藤大介の挑戦

スポーツ報知
日本代表DF長友(左)と談笑するフィリピン代表・佐藤(佐藤大介提供)

 今月5日に開幕したアジア杯。9日に初戦を迎えたサッカー日本代表は、トルクメニスタン代表と3〇2の死闘を演じた。だがその2日前に、1人の侍がアジアの強豪・韓国代表に挑んでいた。日本人の父とフィリピン人の母を持つフィリピン代表DF佐藤大介(24)=ルーマニア1部・セプシ・ゲオルゲ=が、中国代表戦(日本時間11日午後10時30分)前にスポーツ報知の電話インタビューに応じた。

(取材、構成・海老田 悦秀)

 1月7日、UAE・ドバイで行われたフィリピン代表対韓国代表戦に佐藤は左WBで先発。正確なポジショニングと力強い対人守備で、強力な韓国FW陣の攻撃をしのいだ。だが、後半22分にG大阪・FW黄義助(26)に決勝点をあげられ、0―1で惜敗した。佐藤は「(ロシア)W杯でドイツを破ったチームといい試合ができて自信になった。個人でも1対1の守備で抑えられた」と振り返った。

 試合前の下馬評は韓国代表の圧勝が多勢だったが、フィリピン代表は奮闘を見せた。同代表は2000年代から、国外の移民労働者の子息を積極的に招集してチーム強化を図ってきた。韓国戦に先発した11人中、ドイツ系は5人、スペイン系2人、デンマーク系、オーストリア系もおり、国際色豊か。欧米の1~2部リーグをプレーした選手が大半だ。「アジア杯は出るだけじゃなく、ラウンド16に出場することが目標」と佐藤。続く中国代表戦、キルギス代表戦の前に目標を高らかに掲げた。

 波乱万丈の人生だった。フィリピン・ダバオで生まれた佐藤は、生後9か月で日本に移り、兄の影響で3歳からサッカーを始めた。その後は浦和の下部組織に入団。だがトップチームには昇格できず、東北の雄・仙台大に進学した。同大の吉井秀邦監督(45)は「(佐藤は)クロスの精度が高く、攻撃センスに優れていた。守備も1年で伸びたので、彼はプロになると思った」と太鼓判を押した。順風満帆に見えたキャリアだったが、大学1年時に父の敏行さんが肺炎を患った。「自分でお金を稼いで家族を支えなければいけないと思った」と決断した佐藤。母・エルマさんの祖国へと渡り、フィリピン1部グローバルFCの契約を勝ち取った。

 フィリピンに渡ってすぐに頭角を現し、3か月後に佐藤は同代表に招集された。「最初は言葉の違いなどもあったけど、代表のみんなが優しかったのですぐに溶け込めた」と順応し、中核選手へと成長した。転機は16年3月29日。勝てばアジア杯予選への進出が決まるW杯アジア2次予選最終戦で、10年南アフリカW杯に出場した北朝鮮代表と対戦し、3―2と金星を飾った。「北朝鮮に勝てたことで、(代表は)アジアの上を目指すようになった」。この試合で活躍が認められた佐藤はルーマニア1部CSMSヤシに入団。その後も水戸や湘南からオファーを受けるも、17年にはデンマーク1部・ACホーセンスに加入した。代表も順調にアジア杯予選を勝ち抜き、フィリピン史上初の同杯進出を決めた。

 名将や日本代表から刺激を受けた。昨年10月にイングランド代表監督などを歴任した世界的名将のエリクソン監督(70)が、フィリピン代表の指揮官に就任。佐藤は「相手の分析や対策が、他の監督と違う。選手も安心して試合に臨める」と名将の手腕を絶賛。韓国戦でもその知略が光り、イレブンの後押しとなった。韓国戦後にはフィリピン代表の滞在先のホテルに、日本代表も宿泊していた。「原口くんや槙野さんが僕の顔を覚えていて、『韓国とあれだけ戦えたのはすごい』と言われて刺激になった」と言う。

 次戦は06年W杯でイタリア代表を優勝に導いたリッピ監督が率いる中国代表。「中国戦は謙虚に戦いたい。韓国戦の自信が無駄にならないように、全力を尽くす」。苦節を乗り越え、大舞台にたどり着いた佐藤の物語は始まったばかりだ。

 ◆佐藤大介(さとう・だいすけ)1994年9月20日、フィリピン・ダバオ生まれ。浦和ユース(大宮武蔵野高)を経て仙台大に進学。14年3月にフィリピン1部・グローバルFCと契約。16年にルーマニア1部・CSMSヤシに入団。翌年デンマーク1部ホーセンスへの移籍を経て、18年にルーマニア1部・セプシ・ゲオルゲに加入。代表歴41試合出場3得点。170センチ、66キロ。利き足は左。

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