【横浜M】中沢佑二に憧れて 緊張でガチガチの初対面、平静を装った担当時代

スポーツ報知
現役引退を決めた横浜M・中沢佑二

 横浜Mは8日、元日本代表DF中沢佑二の現役引退を発表した。

 中沢との初対面は、今でも鮮明に覚えている。2017年の1月、横浜・小机フィールド。緊張でガチガチの私は、「おっ、初めての人だな?」と声をかけられた。名刺を渡すと、一言。「俺、しゃべらないからね~」。笑顔を浮かべながら颯爽と愛用の自転車でロッカーへ去る背中を追いかけ、必死に並走しながらコメントをとった。

 私は高校時代にセンターバックを務めた。練習試合用ユニホームは背番号22。冬でも試合中は「半袖+手袋」。全て中沢を意識してのものだった。私も(と言うと大変恐れ多いが)ヘディングを武器としていたこともあり、あのプレースタイルに憧れた。大学時代に思いつきで挑戦したツイストパーマも、今思えば「ボンバーリスペクト」の延長だったかもしれない。

 マリノス担当だった2017年の1年間、これらのことは上司にも、クラブ側にも、もちろん本人にも黙っていた。取材に支障をきたしてはいけないと思ったからだ。あくまで一選手として取材した。セットプレーから得点が奪えないことを厳しめの論調で書いたこともある。その後も変に平静を装ってしまい、当たり障りのない質問しかできなかったことは今でも悔いが残る。

 現在、私はUAEでアジア杯取材の真っただ中。他社の記者の方が、選手に「今までで印象に残ったアジア杯のシーンはありますか」と尋ねる場面によく遭遇する。名波浩の神業ボレー(00年)、鬼神・川口能活(04年)、李忠成の左足ボレー(11年)…。時に興奮気味に話す選手の言葉を、私も大きくうなずきながらノートにメモしている。だが内心では思っている。

 「いやいや、04年中国大会準決勝バーレーン戦の後半44分、中沢佑二の起死回生低空スーパーダイビングヘッドでしょ」―。(記者コラム・2017年横浜M担当=岡島 智哉)

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