大八木淳史氏手記…いつまでも「平尾、大八木の時代は強かった」ではいけない

スポーツ報知
1989年1月10日、全国社会人ラグビー選手権決勝で初優勝し万歳する神戸製鋼の(左から)平尾誠二、大八木淳史

◆ラグビー 日本選手権兼トップリーグ決勝トーナメント決勝 神戸製鋼55―5サントリー(15日、秩父宮ラグビー場)

 決勝で神戸製鋼がサントリーを55―5で下し、18季ぶり最多10度目の日本選手権V、15季ぶり2度目のトップリーグ(TL)制覇を達成した。11、15年W杯を連覇した元ニュージーランド(NZ)代表アシスタントコーチで、今季から2年契約で就任したウェイン・スミス総監督(61)がチーム改革に成功。16年10月に胆管細胞がんで死去した元GMの平尾誠二氏(享年53)へ優勝を届けた。平尾氏と神鋼で日本選手権7連覇に貢献した大八木淳史氏(57)は手記を寄せた。

 神鋼スティーラーズ、日本一奪回おめでとう。平尾もきっと喜んでいる。クラブ内の誰からも頼られていた平尾誠二を失った神鋼を、スミス総監督はよく立て直してくれた。ダン・カーターを獲得し、好調だった今季優勝できなければ、当分優勝できないと思っていただけに、OBとして喜びもひとしおだ。

 私は同大時代の1984年春から夏にかけ、ニュージーランド(NZ)にラグビー留学した。カンタベリー州代表のBチームで試合に出させてもらった際、Aチームにウェイン・スミスがいた。当時は世界がプロ化する前で、NZ代表の彼でさえ、普段はスポーツ用品店の店員。レジを打っていた彼に書いてもらったサインを今も持っている。

 当時、私は州代表Aチームに手が届きそうで、秋まで現地に残るつもりだったが、NZまで来た平尾に「大八木さん、一緒に新日鉄釜石を倒しましょう」と説得されて帰国した。同大に再合流したが結局、日本選手権で釜石に敗れて7連覇を許した。就職は「打倒・釜石」を考え、当時実力NO2だった神鋼へ。平尾も英国留学を経て、一時はラグビーをやめると言い出したが、やはり日本一を目指して神鋼に入ってきた。

 入社3年目の87年度オフ、当時の亀高素吉社長から呼ばれて主将を勧められたが、私は「平尾の方が良いと思います。僕がサポートします」と意見した。平尾とは伏見工、同大、神鋼、日本代表でもチームメート。1学年下だがラグビー歴が長く、人格者の平尾に主将を任せた。2番手の方が向いていると思った私は、部内で衝突が起きた際に先輩を説得する役に徹した。

 神鋼はこのシーズンから7連覇を達成。チームは夏場だけ海外からコーチを呼んで指導を受けるなど、他のチームがやらないことをしていた。「昨年の豪州人コーチとは考え方が似ているから、今年はフランス人に頼もう」とか、常に変化を求めていた。

 ただ、いつまでも「平尾、大八木の時代は強かった」ではいけない。戦術に流行はあるが、神鋼はさらにその先へ、常に新しいことを追求し続けて日本ラグビーをリードしてほしい。(元日本代表ロック)

 ◆大八木 淳史(おおやぎ・あつし)1961年8月15日、京都市生まれ。57歳。77年に伏見工(現・京都工学院)でラグビーを始め、79、80年度の高校日本代表。同大で82~84年度全国大学選手権3連覇。85年に神戸製鋼入社。88~94年度日本選手権7連覇。97年に現役引退。日本代表30キャップで87、91年W杯出場。タレント、俳優としても活躍。

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