高校ラグビー幻の“決勝戦”〈1〉昭和天皇崩御で中止になった大工大高VS茗渓学園

スポーツ報知
両校優勝で一緒に記念撮影する大工大高(左側)と茗渓学園の選手たち

 

 昭和64年(1989年)1月7日、昭和最後の日。全国高校ラグビーは決勝を迎えていた。だが、優勝候補筆頭の大工大高(大阪、現・常翔学園)と“エンジョイラグビー”で旋風を巻き起こした茗渓学園(茨城)の顔合わせは、昭和天皇崩御による大会開催自粛により、中止が決定。両校優勝となった。幻の“決勝戦”が行われたのは、26年の時を経てからだった。

 昭和天皇崩御は1月7日午前6時33分。大会関係者は早朝から慌ただしい動きを見せた。報知新聞社のラグビー担当だった片山孝典(69)も会場の大阪・花園ラグビー場へと急ぎ、試合開始3時間前の午前10時頃、到着。「中止になるとは思ってなかった」と片山は振り返る。

 関西ラグビー協会・松丸哲也理事長は日本協会などとの打ち合わせを行い、試合開催で話は進んだ。さらに、文部省への問い合わせでも午前9時頃までは、その流れは変わらなかったが、政府が「公務員は6日、民間人は2日」をめどに、喪に服すことを呼びかけたため、9時半からの大会実行委員会で、中止が決まった。

 報知新聞社入社1年目の吉田哲也(54)はデスクから電話を受け、大阪市中央区の茗渓学園の宿舎に走った。「関係者でごった返していた。取材は全て花園で受けるということだったので、そちらに向かった」。午前10時には両校に中止決定が知らされた。茗渓学園の監督だった徳増浩司(67)は「頭の中が真っ白になって、言葉が出なかった。ホテルから花園に向かう景色全てが、グレーのどんよりしたものに見えました」と、衝撃を受けた。

茗渓誰も泣かず 「大工大高の選手はみんな泣いていた。すごく悔しがっていた選手もいた」と吉田。大工大高2年だった元木由記雄・京産大ヘッドコーチ(47)は「3年生の方は最後の試合で優勝も懸かっていたので、余計、気持ちは強かったと思います。私も正直やりたかったけど、荒川先生(荒川博司部長)から『試合はなくなったけど、優勝には変わりない』と言われて、あれはあれでよかったのかなという気持ちはしています」

 表彰式前の15分間、茗渓学園の選手たちは、花園第3グラウンドで、ヘッドキャップを詰めたスパイクケースをボール代わりに、走り回った。「もう荷物も送ってしまって、ボールもなかった。誰かが『最後、タッチラグビーやろうよ』と言って、僕のケースを使いました。誰も泣いていませんでした」と主将だった大友孝芳・青学大監督(48)は振り返る。選手たちを見た徳増は「楽しんでいて、うれしかったです」。この“エンジョイラグビー”が、茗渓学園の決勝進出の原動力だった。

(編集委員・久浦 真一)=敬称略=

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