高校ラグビー幻の“決勝戦”〈3〉優勝候補NO1だった大工大高

スポーツ報知
元木由記雄氏

 ◇昭和64年1月7日 大工大高VS茗渓学園

 全国高校ラグビーの公式練習は、大阪城内にあるグラウンドで行われていた。大会直前、大工大高(現常翔学園)の練習を取材していた報知新聞社・吉田哲也は、先に練習を終え、大工大高・荒川博司部長の近くを通り過ぎる茗渓学園フィフティーンがあいさつするのを見ていた。荒川部長に声をかけられ選手たちは「はい、楽しみます」と返していた。その後、同部長は「いいよな。ああいうふうに言えて。こっちは勝たなきゃいけないんだから」と報道陣に向かって冗談めかして言った。

 荒川は無名校だった大工大高を強豪校に育て上げ、77、81年度大会で優勝。強力FWと後に日本代表で活躍するセンター、元木由記雄らを擁するバックスはバランスが取れ、優勝候補NO1に挙げられていた。その重圧は相当のものだったはずだ。

 2回戦の北見北斗(北海道)戦を45―3、3回戦の八幡工(滋賀)戦を18―3、準々決勝の大津(山口)戦を51―13で、それぞれ危なげなく破り、ベスト4に進んだ。だが、準決勝の相模台工(神奈川)戦は大苦戦となった。終盤、相模台工の猛追に、16―10。残り8分を守勢一方でどうにか逃げ切り、選手たちは涙を流した。苦しみ抜いての決勝進出だっただけに、決勝中止の衝撃はさらに大きく、選手たちは泣き続けた。

 2年生だった元木は「表彰式のあとで、両チームで写真は撮ったこと以外、あの日のことはあまり覚えていない」と話した。翌年優勝を目指したが、大阪予選でまさかの敗退を喫し、自らの3年間で“単独優勝”をかなえることはできなかった。だが、元木は「両校優勝という決着はついているんで、それ以上決着をつける必要はないんですよ」と振り返った。

 茗渓学園の選手たちはこの日の最終電車で、学校の最寄りの常磐線・荒川沖駅に到着。そこには、同校の校長が一人で出迎え、「お疲れさま」と声をかけ、解散となった。主将だった大友孝芳は「中止と聞いたときに、みんな淡々としていた。ただ、中学から6年間一緒にやってきた仲間と最後の試合ができなかったのが寂しいという気持ちが強かった」。もちろん、大工大高にとっても“最終戦”という思いは同じだった。だが、誰が26年後に同じ花園で対戦することを予想しただろうか。

(編集委員・久浦 真一)=敬称略=

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