ミュンヘン五輪100バタ、世界新で金をとった青木まゆみさん、池江璃花子へ「壁にぶつかったら基本に返れ」

スポーツ報知
71年の日本室内水泳で、女子200メートルバタフライの日本新記録をマークした青木まゆみさん(当時)

 1972年のミュンヘン五輪で、世界に衝撃を与えた日本人がいた。競泳の青木まゆみ(現姓・西口)が100メートルバタフライで世界新記録をマークして、金メダルを獲得したのだ。欧米選手が絶対有利とされる種目で、日本人として史上唯一のメダルをもぎ取った伝説的なスイマーがスポーツ報知の取材に応じ、当時の記憶を語るとともに、東京五輪の同じ種目で頂点を目指す池江璃花子(18)=ルネサンス=へと、エールを送った。(太田 倫)

 “60年に1人”のスイマーは、快活な声とともに現れた。「お待たせしてすみません」。西宮市立西宮東高校の応接室。日本の競泳史に残る金字塔を打ち立てたその人は65歳となり、現役で教べんを執っている。

 今、無敵の勢いを誇る池江璃花子が、東京で金メダルを見据えるのが100メートルバタフライ。日本人はこの種目でただの一度だけ、五輪の頂点を極めた。それが青木まゆみ―現在の西口まゆみ先生、である。72年ミュンヘン五輪決勝。1分3秒34の世界新で、熊本出身の19歳がセンターポールに日の丸を掲げたのだ。競泳の金は、36年ベルリン五輪200メートル平泳ぎの前畑秀子以来だった。

 「当時はガッツポーズなんかしたら生意気だ、と言われてしまう時代。どうしよう、と。うれし恥ずかし、という気持ちでしたね」

 自由形とバタフライは、パワーや体格がものを言う。中でも50メートルや100メートルという短距離で日本人が欧米の選手に勝つのは至難の業とされてきた。女子の100バタは、56年メルボルン五輪で初めて採用され、2016年リオ大会までの60年間、16大会で日本人が獲得したメダルは、青木の金1つだけ。ちなみに男子はゼロである。金メダルの難易度を例えるなら、日本人が陸上の100メートルで優勝したり、ボクシングで重量級の王者に上り詰めることに匹敵する…と表現しても言い過ぎではないだろう。

 「コーチから金メダルを取れ、という言い方はされなかった。よく言われたのは『メダルは棚にあるぼた餅なんだ、ちょっと手を伸ばせば届くんだ』と」

 その「ちょっと」のための練習は想像を絶した。地元の熊本の中学に通っていたが、3年時に当時、有力選手が集結していた大阪の山田スイミングクラブ(SC)へと水泳留学。猛練習は1日8時間にも及び、容赦なく怒声と鉄拳がワンセットで飛んできた。

 「なんでこんな叩かれなあかんの、と。プールサイドに座っていると、自然に涙が流れてくる。頑張っているのに何で認めてくれないの、何で私だけ、と思いながらやっていました」

 高校卒業後はあえて進学も就職もせず、五輪イヤーは“水泳浪人”として練習に明け暮れた。当時の日本人女性としては大柄な164センチ、63キロの体から繰り出される力強い泳ぎ。「金太郎」「女金時」などという堂々たるニックネームも頂戴し、優勝候補としてミュンヘンへ乗り込んだ。

 「プレッシャーというのはあんまり…。自分は敷かれたレールの上を走るだけだった」

 決勝当日。サブプールで体を慣らし終えると、コーチが言った。「ここから先はお前一人やで」。一計を案じた。決勝に残った8選手のうち、6人が海外選手。心理戦を仕掛けた。

 「一人一人の目をじっと見ていくんですよ。『何て目つきの悪い子なの』と思われたでしょうね。全員最後は目をそらしたので、『勝った』と。暗示にかかりやすいんですよ」

 本番。前半が強い隣のコースのドイツ選手に食らい付いていき、爆発的なスパートで逆転した。「それこそ無我夢中で」。この後半の記憶は全くない。ガッツポーズもできないまま陸に上がると、当時日本のトップスイマーで、同じ山田SCの西側よしみが涙ながらに祝福してくれた。それで、せきを切ったように涙が止まらなくなった…。

 「青春の一ページに、神様がくれたご褒美かなと思いますね。メダルがなければ…何だったんだ、と思いますよね。何もなかったですねえ…」

 翌73年に新設された世界選手権で銅メダルを獲得すると第一線を退き、体育の教員になる道を選んだ。その後、水泳とは一定の距離を置いてきた。

 「また4年間、同じ練習は絶対できません。花が咲いているうちに去った方がいい、と思いました」

 ようやく、後継者になってくれそうな選手が現れた。伝説的なスイマーの目に、池江の泳ぎはどう映るのか。

 「すごくきれいなフォーム。両方の肘がしっかり立って、水を捉えられる。そして、腕の軌道が左右きれいに対称。キックもしっかり蹴れていますし、基本ができているんだと思います。去年から比べると、体も泳ぎのストロークも大きくなったと感じます。他の種目にもたくさん出ますし、本当に人並み外れていると思いますね」

 今も大きな大会では、プレゼンターを務めることがある。池江が100バタで優勝した8月のパンパシフィック選手権にも訪れた。「テレビで見ているくらいしかできないけど、頑張ってね」と声をかけた。

 「これから、周りに押し潰されないでほしいですね。けがをせず、今の気持ちを持って、そのままやっていってほしいと思います。いずれ壁にぶつかるときが来るかもしれませんが、そこでどうするか。私の場合は、とにかく基本に返れ、と教わりました。記録うんぬんではなく、徹底的に基本を見直すことが大事なのではと思います」

 青木まゆみに肩を並べてほしいですか、と問うと、笑いながらうなずいた。

 「“青木まゆみ”という名前が残ってもいいんじゃないかという気持ちもありますけど、やはり記録はどんどん新しくなっていくものですからね」

 長い長い“空白”が終わりを告げるのか。48年ぶりに歴史が動く瞬間を、西口先生は心から待っている。

 ◆西口 まゆみ(にしぐち・まゆみ)1953年5月1日、熊本・菊鹿町(現山鹿市)生まれ。65歳。旧姓・青木。中学3年時にスカウトされて、大阪の山田スイミングクラブに入門。100バタでは70、72、73年の日本選手権を制覇。現役時代は、腕ひとかきの間に2度キックする「1ストローク2ビート泳法」で鳴らした。ミュンヘン五輪後は浪花女子高から天理大に進学。今は体育教師として、西宮東高に勤務している。89年に米国の水泳殿堂入り。

 ◆村山よしみ理事が語る、青木の泳ぎの魅力

 日本水泳連盟常務理事の村山(旧姓・西側)よしみさん(65)はミュンヘン五輪当時の競泳女子の大エース。青木と同い年で、山田SCでもチームメートだった。池江とは対照的だったという青木の泳ぎの魅力について語った。

 青木さんはガッチリした頑丈な体を持っていて、まさにニックネームの通り「金太郎さん」という感じでした。泳ぎは非常に力強くて、キックも腕の引きも強い。そういうパワフルさをグイグイと前面に出していっていました。

 特徴的なのはバタフライで腕を上げるときに左右対称になるのが理想ですが、右腕は真っすぐ、左腕は少し肘が曲がったようになるんですね。そういう癖も、パワーでカバーしていたと思います。池江さんは無駄がなく伸びやかな泳ぎ。スイマーとしては対照的なタイプといえますね。

 青木さんは、何が起きても全く動じない人でした。いつもデーンとしていて、「そんなん気にせえへんわ」という感じ。五輪でも全く雰囲気にのみ込まれるところはありませんでした。練習中に、ときどき“ストライキ”を起こすような芯の強さも尋常ではなかったですし、それが勝負強さにつながっていたのではと思います。

 池江さんは本当に素晴らしい可能性を持っています。レースに臨む表情を見ていても、あまり動じない部分を持ち合わせていると感じます。あえて2人の共通点を探すとすれば、精神力の強さでしょうか。(談)

 ◆池江、リオ金から「吸収」

 池江は10月から新シーズンに入った。15日には、リオ五輪100メートルバタフライ金のサラ・ショーストロム(スウェーデン)との約2週間にわたる合同練習のため、トルコに飛び立った。「彼女がどうやって上り詰めたのか。足りないものを吸収できたら」。東京五輪で間違いなく火花を散らすであろう北欧の女王と、貴重な時間を過ごす。
 今年は個人(長水路)で合計13個もの日本記録をマーク。西口さんも見守ったパンパシの100バタでは主要国際大会における初優勝を飾った。8月のジャカルタ・アジア大会では女子史上最多の6冠に輝くなど、まさに無双状態だった。4月からは日大に進学。現在は来夏の世界選手権(韓国・光州)でのメダル獲得に照準を合わせている。

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