14歳でバルセロナ五輪・金メダルの岩崎恭子さん「今は娘が生まれたことが一番の幸せ」

スポーツ報知
平成を振り返り「泳」という文字を書いた岩崎さん。今の一番の幸せは「娘が生まれたこと」という

 「平成スポーツあの時」と題し、記憶に残るスポーツトピックスを関係者らの証言から掘り下げていく。第1回は平成4年(1992年)にバルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した岩崎恭子さん(40)。14歳で日本中を驚かせ「今まで生きてきた中でいちばん幸せです」と話したヒロインに、当時を振り返ってもらった。(取材・山田豊、塩沢武士)

 14歳6日。27年前にバルセロナで沼津五中の2年生が成し遂げた快挙は、今も五輪競泳史に輝く。150センチと少し、体重は40キロ台。きゃしゃな少女が最年少で金メダルを獲得した瞬間、日本中は歓喜と驚きに沸いた。なかでも地元の沼津は騒然となり、とてつもない熱気に包まれていた。

 「出発時の見送りは家族、コーチ、校長先生ら10人くらい。でも帰国したら駅のホームは人の山。どうやって改札の外に出ればいいのか、わからなかった」

 金メダル獲得から9日後の8月5日、沼津駅には昼過ぎに到着。オープンカーで沼津市役所までパレードした。同市の人口は当時約21万人だったが、4分の1近い約5万人がヒロインを目撃しようと集まっていた。

 「当時、パレードは珍しくて、ビルの上から見ていて驚いた。まだインターネットがなくて、バルセロナでは日本の新聞で結果が張られているのみ。あの言葉が一人歩きしているとは知らなかった」

 普通の女子中学生の生活は一変した。通学はそれまで徒歩だったが、母の車で送ってもらうようになった。同級生はテレビに映り続ける姿に熱狂。学校での風景も変わった。

 「出発前と違うことが毎日起きた。(両親が)自営業(水道工事)だったので電話帳に掲載していた番号は鳴り続け、2つ目の回線を引いた。知らない人にもよく追っかけられた。家の前で待ち伏せもされた。学校内ではサイン禁止になった」

 バルセロナは2番手での出場だった。日本選手権は姉・敬子さんに競り勝って2位に入り出場権を獲得。当時の日本記録は83年に長崎宏子が出した2分29秒91だったが、自身は「2分30秒が壁だった」という世界ランク14位で、目標の決勝進出も簡単ではないと思っていた。しかし、五輪予選で2分27秒78といきなり日本記録を更新。迎えた決勝では、初めての感覚を経験していた。

 「泳ぐ前、心臓の音が聞こえたのは初めて。自分でないような感覚が起きた。最後の15メートル、10メートルは(極度の集中状態の)ゾーンと言えるかもしれない。必死にゴール板をタッチした」

 同種目では36年ベルリン五輪・前畑秀子以来56年ぶり金。そして、インタビューではあの言葉が飛び出す。「今まで生きてきた中でいちばん幸せです」―。何度も繰り返し報じられ、競技に集中できなくなり、94年広島アジア大会に落選するなどスランプに陥った。金メダルが競技の重荷と感じ、葛藤(かっとう)した時期もあった。

 「開き直るのに2年かかった。学校や練習に向き合い、自問自答した。私が目指すものは五輪とメダル、そして金メダルは誇れるもので、獲らない方が良かったと思ったことは間違いだったと気付いた。アトランタ五輪で金メダルの意味や価値を再確認したかった。世の中はメダルを期待していたようだけれど、前回みたいなことは起こらない。(平泳ぎ200メートルで)10位という結果に納得しているし、その過程があって今がある」

 一方で「今まで―」の言葉は、ずっと心に引っかかったままだった。アトランタ五輪から帰国後も、見知らぬ人に「私なんて何年生きてても良いことない」と言われた。言葉を聞くと、露骨に不機嫌になり、ふてぶてしい態度を取ることもあった。解放されたのは20歳で引退後。ふとしたきっかけだった。

 「競泳は(競技が)終わってすぐインタビューだから、(あの言葉は)全く考えていなかった。素の姿で出たけど、後悔したこともある。でも大学3年時、妹(佐知子さん)が貼った(詩人の)相田みつをさんの日めくりカレンダーで『しあわせはいつも自分のこころが決める』という言葉を見て、これだ~って。レースでは一番をとらないといけないけれど、普段の生活で一番はつけられない。人の幸せをうらやむんじゃなく、素敵だなと思えるようにしたい。私にとっては、今は娘(7歳)が生まれたことが一番の幸せ」

 平成のヒロインは、最も心に残る大会を尋ねると、五輪でも日本選手権でもなく、バルセロナ五輪前年の91年に行われた静岡高校総体を挙げた。

 「姉(敬子さん)や静岡の選手が優勝し、かっこいいなと思った。強化合宿から1つのものを作り上げ、個々で高め合ったことをすごく覚えている。当時は中学生で見ていただけなのに、平成で一番思い入れがある。刺激を受け、金メダルにつながった」

 一文字で平成を書いてもらうと「泳」と記した。「難しいけれど、私にはこの文字が浮かんだ」。現役時代は五輪へ、引退後もスイミングアドバイザーや解説者として携わってきた「泳」。きっと新元号でもそうだろう。ただ、泳ぎ続けるなかで「今まで―」の言葉に対する心境は、感謝へと変わっていた。

 「27年たっても、『岩崎』と『幸せ』がセットになっているのはうれしい。人の記憶に残っていることはありがたいなと思います」

 ◆バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎ決勝 岩崎は世界ランク14位で、全くの無名選手。当時の世界記録保持者で優勝候補アニタ・ノール(米国)は、前半から世界記録を上回るペースで飛ばし、一時2メートル以上の差に。だが、後半勝負を決めていた岩崎は最終ターンを終えると差は1メートル以内に。残り5メートル付近でまくり上げ、当時の五輪記録となる2分26秒65で優勝。14歳6日での金メダルは、競泳では五輪最年少。

 ◆岩崎 恭子(いわさき・きょうこ)1978年7月21日、沼津市生まれ。40歳。90年に日本選手権初出場。92年バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎで14歳6日で金。「今まで生きてきた中でいちばん幸せです」の言葉が流行語に。日大三島高3年時の96年アトランタ五輪は同種目10位。日大進学後の20歳で現役引退。11年3月に長女を出産。現在スイミングアドバイザーなどを務める。

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