車いすバスケ小田島理恵、感謝の笑顔届けたい…パラ開幕まであと525日

スポーツ報知
正確なシュートを放つ小田島

 東京パラリンピック(20年8月25日~9月6日)開幕まで、19日であと525日となった。車いすテニス・クァードクラスの菅野(すげの)浩二(37)、車いすバスケットボールの小田島理恵(29)、シッティングバレーボールの田澤隼(26)=いずれもリクルート=は、3人が勤務するリクルートオフィスサポートが推進するアスリート支援制度にも背中を押されメダルの見える位置まで成長してきた。日本で2度目の開催となる障害者スポーツ最大の祭典。それぞれに高まる胸の内を聞いた。(取材・構成=谷口 隆俊)

 「楽しいこと、あるよ。やってみない?」―。車いすの人を見かけると、小田島はつい声を掛けて車いすバスケットボールに誘ってしまう。人なつっこい笑顔が印象的。自分を明るくさせるバスケの素晴らしさを、一人でも多くの人に伝えたいのだ。「余計なお世話かもしれないけど、引っ込み思案の人もいると思うし。実際、声を掛けた人で選手になった方もいます」

 22歳の時、事故で脊髄を損傷。13時間、2日にわたる手術を受けた。両親はもちろん、新婚の姉も嫁ぎ先の愛知から戻って付き添った。「親は生きるか死ぬか分からないと言われていたようです。2か月くらいはICUに入っていました」

 退院時には、ハイハイで進むことしかできなかった。父が「障害者が運動できるみたいだよ」と勧めてくれた施設に出向くと、車いすバスケの体験教室があった。「何となくやってみようかな、と。競技用車いすはスピードが出て、よく回る。うわっ、楽しいって思って…。新しいおもちゃを手にした感じでした」。最初はうまく操作ができず、ボールを持つのもやっとだったが「私、できない方が燃えるんですよ。もっとうまくやりたいなって」。車いすバスケに魅了されるのに時間はかからなかった。

 中学時代は吹奏楽部で、一番大きな楽器のチューバを担当。狭山清陵高時代は少林武術に熱中し、終電がなくなるまで練習したこともあった。高3の時には右膝を痛め全国高校大会を欠場。このままでは終われないと一般の全国大会に出場し、5位入賞を果たした。

運命の出会い  長野志穂コーチ=写真=との出会いが、飛躍のきっかけとなった。「何となく分かっていたことでも、つながりがなかった。練習の目的だとか、そのプレーは試合のこういう時に使うとか、点だったものを線につなげてくれた」。長野コーチから指導を受けた次の選考会で、日本代表入りを果たした。

 高校時代は摂食障害に悩み、1年間で体重が41キロも落ちた。だが「バスケを始めて『ご飯を食べなきゃ』となったら、摂食障害も徐々に良くなってきた。バスケが全部変えてくれた」。だから、声を掛けたくなるのだ。

 子供たちが参加する車いすバスケの体験会にも積極的に協力している。

 「子供たちからは体験会の感想文をもらいました。『障害者と感じさせないほど元気だったので勇気をもらうことができた』『障害者、子供、お年寄りに対する小さな、さりげない思いやりの心が大切』とか。私には今、けがをきっかけに、日の丸を背負ってパラリンピックを目指す、夢のような状況ができている。マイナスの経験をマイナスのままに終わらせない。今の自分があるのは、いろんな過去があったからこそ。もっと人に頼って良かったんだと思ったら、気持ちが楽になりました」

 パラリンピックは「感謝の気持ちを表す場」という。「姉の新婚生活にごめんなさい、です。大変な時代を知っている人たちに、おかげさまで元気になりましたと伝える場にしたい」。そう言って、この日一番の笑顔を見せた。

 ◆小田島 理恵(おだじま・りえ)1989年4月1日、埼玉県生まれ。29歳。GRACE所属。ポジションはガード・フォワード(GF)。2013年から車いすバスケを始め、16年から日本代表強化指定選手。17年世界選手権アジアオセアニア予選3位。ニックネームは「おだじ」。趣味はショッピング、漁港巡り、犬と遊ぶこと、スターバックスコーヒーのカード集め。「200枚くらいあります。スタバが好きで真冬でもフラペチーノ。頭がキーンとならない」。子供の頃には祭りでかき氷5杯を平らげたこともある。

 ◆車いすバスケットボール 10分×4ピリオド制。ダブルドリブルは適用されない。選手は障害に応じて持ち点(1.0~4.5、数字が小さいほど障害の程度は重い)が定められ、1チーム5人の持ち点が14.0点以下でなければならない。

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