貴景勝、常識覆した!平成最小で最後の大関へ

スポーツ報知
栃ノ心(右)を押し出しで破り、10勝目を挙げた貴景勝(カメラ・近藤 誠)

◆大相撲春場所千秋楽 ○貴景勝(押し出し)栃ノ心●(24日・エディオンアリーナ大阪)

 関脇・貴景勝(22)=千賀ノ浦=の大関昇進が事実上決まった。勝てば昇進、負ければ見送りの千秋楽の大一番で、カド番大関・栃ノ心(31)=春日野=を押し出して10勝目を挙げた。昇進目安の、三役で直近3場所合計33勝を上回る34勝に到達。審判部が八角理事長(元横綱・北勝海)に昇進を審議する臨時理事会(27日)の開催を要請し、了承された。身長175センチは、平成に誕生した大関の中で初の170センチ台。平成最後の本場所で、個性派の日本人大関が誕生した。

 頬をつたったのは、汗か涙か。緊張と安堵(あんど)が入り交じった表情が、貴景勝の15日間を物語っていた。勝てば大関昇進決定的の栃ノ心戦。立ち合いで自身より16センチ高い大関の胸に頭からぶちかまし、突き、押しの速攻で押し出して昇進ノルマの10勝に到達。「出し切ってやりたいと思っていました。緊張してました。ホッとして力が抜けた。でも、泣いてないですよ」。勝ち残りの土俵下では、静かに勝利の味をかみしめた。

 打ち出し後、八角理事長が、審判部が要請した昇進を諮る理事会の開催を受諾。事実上、新大関が誕生した。22歳7か月22日は、初代・貴ノ花に次ぐ年少9位の記録となった。平成で昇進した25人の大関は、すべて180センチ以上。外国勢を筆頭に日本人も大型化が進み、現在の幕内平均は183・95センチ。体格差が有利となる角界の常識を、175センチの小兵がひっくり返した。

 “高い壁”を乗り越え続けてきた。「相撲界に入って、その身長じゃ関取は無理と言われた。関取になったら三役は無理、大関は無理と」。相撲を始めた小3から小さく、父・一哉さんと身長を伸ばすため東京の病院に通ったほど。新弟子の時に、栃ノ心ら190センチを超える関取を見て「入るところ間違えたかなと思いました」。それでも自分を信じて鍛錬を重ね、14年秋場所の初土俵以来、所要28場所、年6場所制以降で武蔵丸に次ぐ6位のスピードで大関を射止めた。

 極めたのは突き押しだ。「押しだけだったら誰にも負けない強さを手に入れたい。神様からもらった体だから」。低く、相手を突き起こすため、高校時代ベンチプレス200キロを誇った腕力とともに、強じんな下半身が必要。四股、すり足は一つの動作にじっくり時間をかけ、負荷を大きくする。また、コンディションを保つため毎日、30種類を超えるサプリメントを摂取。すべては小さな体をカバーし、武器へと変えるため。試行錯誤して自分のスタイルを貫き続けた。

 たどり着いた大関。「目指してきたところだから、うれしい」。普段は一喜一憂しない22歳は素直に喜んだ。今後も姿勢はぶれない。「まわしを取らず、突き押し一本を磨く。気持ちが強い力士になりたい」。まだまだ横綱への一歩。「ここがゴールじゃない。2場所で落ちたら何の意味もない。さらに上を目指していかないと(大関は)務まらない」。貴景勝の、夢は続いている。(大谷 翔太)

 ◆貴景勝 光信(たかけいしょう みつのぶ)
 ▼生まれ 1996年8月5日、兵庫・芦屋市。22歳
 ▼本名 佐藤貴信。名前は元横綱・貴乃花と戦国武将の織田信長から1字ずつ取られた
 ▼出身校 兵庫の名門・仁川学院小、報徳学園中を経て埼玉栄高へ
 ▼所属 千賀ノ浦部屋。初土俵は旧貴乃花部屋で2014年秋場所
 ▼しこ名 戦国武将の上杉謙信の家督を継いだ上杉景勝が由来
 ▼スーパー中学生 中学時代は強すぎて稽古相手がおらず、宇良のいた関学大に出稽古していた
 ▼ライバル 幕内・阿武咲(阿武松)。中3だった11年、全国中学校相撲選手権決勝で対戦。貴景勝が勝利して中学横綱に
 ▼好物 1日10個のゆで卵を食べる。「安価にたんぱく質を摂取できる。筋力を落とさないために食べると落ち着く」
 ▼趣味 昼寝
 ▼得意技 突き、押し
 ▼サイズ 175センチ、169キロ

スポーツ

×