翁長沖縄知事、無念の死 米軍移設問題「戦う知事」志半ば…

スポーツ報知

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設阻止を掲げ、反対運動の象徴的存在だった翁長雄志(おなが・たけし)知事が8日午後6時43分、膵(すい)がんにより死去した。67歳。5月15日にステージ2の膵がんであることを公表し、いったんは公務に復帰していた。自民党県連幹事長まで務めた翁長氏だが、2014年11月の知事初当選後は一貫して政府に対決姿勢をとり続けた。沖縄の民意を背負って国と厳しい戦いの先頭に立ち続け、志半ばで力尽きた。

 沖縄に根ざす「不屈」の精神を代弁し、国を敵に回しても一貫して辺野古移設に反対してきた翁長氏も、病魔には勝てなかった。

 4月に受けた人間ドックがきっかけで膵がんが判明。手術を受けて病名を公表した後、いったんは公務に復帰していたが、7月末からはほとんど公の場に姿を見せていなかった。この日、死去の報が出る前に会見した謝花(じゃはな)喜一郎副知事によると、今月4日に翁長氏と病院で面会。自ら意思決定できない状況になった場合などの対応を任され、7日から意思決定に支障が出る状態になったという。がんは肝臓にも転移していた。

 翁長氏は辺野古への米軍普天間飛行場の県内移設に反対する沖縄の民意を背負う存在だった。自民党県連幹事長のほか、32年間の革新市政に終止符を打った保守系の那覇市長を2000年から務めるなど、元々は保守系政治家。しかし、普天間飛行場の「最低でも県外」を掲げた民主党政権の誕生、迷走後に再び辺野古が移設先となったことが運命を変えた。

 14年知事選への出馬を決意し、移設反対を掲げて圧勝。国には「沖縄が自ら基地を提供したことはない。沖縄の人々は自己決定権や人権をないがしろにされている」と物おじせず主張した。ただ、公約の辺野古阻止には手詰まり感も。「辺野古が唯一」を譲らない国に、法廷闘争では連敗。米ワシントンや国連機関にも足を運んで訴えたが、本土の関心は広がりを欠いた。

 それでも信念は揺るがなかった。がん公表後、やせ続けたものの毅然(きぜん)とした態度は崩さなかった。6月の沖縄戦の「慰霊の日」には「私の決意は県民とともにあり、みじんも揺らがない」と声を振り絞った。7月27日に普天間飛行場の辺野古への移設を巡り、埋め立て承認撤回方針を表明。公の場は、この時が最後となった。沖縄の人々にとって大きすぎる存在だった翁長氏。死去は移設問題や、11月に控える知事選に大きく影響する可能性がある。

 公選法により、知事選は県選挙管理委員会に死亡を通知後、50日以内に実施される。9月23日を軸に調整される見込み。

 ◆翁長 雄志(おなが・たけし)1950年10月2日、沖縄県那覇市生まれ。法大卒。85年に那覇市議に初当選し2期8年、92年から沖縄県議を2期8年、00年から那覇市長を4期14年務めた。14年の沖縄県知事選で無所属から出馬し、初当選した。

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