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甲子園V投手&新人王、元日本ハム・正田樹の現在地 「引退」しない生き方

2017年7月10日10時45分  スポーツ報知
  • 愛媛マンダリンパイレーツでプレーする正田樹
  • 夏の甲子園決勝で岡山理大付に勝ち、マウンド上でガッツポーズする桐生第一・正田投手(1999年8月21日)

 懐かしい笑顔に再会した。四国アイランドリーグ・愛媛に所属する正田樹(35)だ。6月下旬に東京・大田スタジアムで行われたフューチャーズ(イースタン・リーグ混成チーム)との交流戦に四国IL選抜の一員として参加していた。

 第1戦で8回に登板し1イニングを内野安打1本に抑えた。「自分にとっては抑えて当然というかそういう意識がありますからね」。相手は“育成選手”を含み、一回り以上、年の離れた20代前半の若手選手。チームメートもまたしかり。それでも正田のはにかんだ、そして爽やかな笑顔は若い時と変わっていなかった。

 初めて正田を取材したのは1999年夏の甲子園。正田は桐生第一のエースとして、ゆったりとしたフォームから投げ込むキレのある直球と落差のあるカーブで、好投を続けた。下馬評は高くなかったが比叡山・村西哲幸(元横浜)、仙台育英・真山龍(元西武)、静岡・高木康成(元巨人)ら後にともにプロ入りする好投手との投げ合いに次々に勝利し、6試合で3完封し、一気に頂点へと駆け上がった。群馬県勢初となる全国制覇だった。

 同年ドラフト1位で日本ハムに入団。当時の本拠地は巨人と同じ東京ドーム。注目度も低く、お世辞にも今のような人気球団とは言えなかった。球団が正田を売り出そうと、デビュー前に同社「ナポリピザ」のCMに抜てき。「そうだ(しょうだ)ピザ食べよう」の微妙? なセリフも今ではいい思い出だ。

 3年目の2002年には9勝(11敗)で新人王を獲得も、07年開幕直前に阪神に移籍。2年間、1軍登板を果たせずに08年オフに戦力外通告。その後は様々なチームを転々としている。台湾・興農(現・富邦)で2年間プレー。その間、ドミニカ共和国でのウィンターリーグにも参加した。レッドソックスのマイナーを経てBCリーグの新潟でプレーすると、12年にヤクルトでNPB復帰。13年オフに戦力外通告されると、台湾・Lamigoを経て14年5月から愛媛に加入し、4年目を迎えた。

 チームメートはNPB入りを夢見て泥にまみれている。正田にNPB復帰へのこだわりはあるのか。「もちろんあります。でも、1回(ヤクルトで)行っているんで、若い選手の目指しているものとは多少ずれがあります。プレーをする場所を求めているというのはありますけどね」。

 気がつけば同級生は次々とユニホームを脱ぎ第2の人生を歩んでいる。コーチなど指導者に転身する人もいる。「いつまで現役を続けるの?」そんな問いかけに正田は「良く聞かれるんですよね」と遠くを見つめると、静かに答えた。「まずは『プレー出来る環境』、そして『気持ち』、『動ける体』この3つがある限り現役を続けたいと思っています」。

 その答えにウソはない。だが、理路整然し過ぎるコメントには、正田の味わったほろ苦い経験も混ざっている。甲子園V投手、新人王…、輝かしい球歴を持つ正田がなぜ独立リーグでプレーを続けるのか。もう聞き飽きるくらいに投げかけられた質問だった。「どうして現役を続けているの?」「いつまでやるの?」「もう辞めてもいいんじゃないの?」。返答に困った。生きることと同じように疑問を抱くことなく野球を続けていたからだ。ただ、あまり親しくない、通りすがりのような人から掛けられた辛辣(しんらつ)な言葉に、ネガティブな意味を感じ落ち込むこともあったという。

 そんな時、親しい人の言葉に救われた。「それって、みんながあなたをうらやましいと思っているからじゃないのかな」。野球選手だけでなく、誰もが決断を下す場面がある。夢を諦めないといけないこともある。その言葉を聞き、野球を続けていることに誇りを持つと同時に心が晴れやかになった。現役を続ける理由を改めて自らの心に問いかけ、自分の言葉にして答えている。

 「好きで野球をやってきたし、今でも野球が好きです。野球を始めた時も(今と同じ)仕事みたいな感覚でしたね。オヤジに怒られながらも、プロを目指して責任感を持って向き合ってきましたね」。

 正田にとっては、台湾もアメリカもドミニカも新潟も愛媛も、投げることができる場所を求め、その時、その時で決断しただけに過ぎない。外国では言葉や食べ物などに苦労した。現在は四国各地を転戦とする。主催試合でも松山だけでない。宇和島へはバスに揺られて2時間かけて試合に行く。設備など取り巻く過酷な環境は、恵まれているNPBと比べると雲泥の差がある。それでも「ないものを求めてもしょうがないと思っている」と淡々としている。

 体も丈夫だ。日本ハム時代から体の手入れに熱心だった。当時は若手が積極的にトレーナー室へ行くのがはばかられた時代。正田は自らマッサージや治療院を探し、そこで治療をしてから球場へ向かっていた。現在も鍼灸(しんきゅう)などに通いコンディションを整えている。

 体力の衰えは経験値でカバーしている。最速149キロを誇った直球は140キロ程度。それでも台湾でひじを痛めていた時に、負担がかからないようにシンカーを投げはじめたことで投球の幅を広げた。「ヤクルトにいる時より、技術にしても考え方にしてもレベルが上がっていると思います」と言い切るほど手応えを感じている。

 「若いときは勢いだけだった。良ければ抑えられるけど、悪ければ…という感じだった。でも今はピッチングが分かってきた。うまく表現できるとより楽しさを感じることが出来る」。台湾・興農、新潟でともにプレーした高津臣吾(現ヤクルト2軍監督)や、毎年のように合同自主トレをした元中日・山本昌から大きな影響を受けた。気がつくと、2人のように自分も現役でプレーすることにこだわっている。

 マウンドに上がり、打者と対峙(たいじ)し真剣勝負を挑む。そこで味わえる感覚のために野球をやっていると言ってもよい。「ドキドキする感じだったり、緊張感というのは野球を辞めたら味わえないですからね。準備してゲームに臨んで抑えられたらうれしいし、そのためにつらい練習も出来る。これからも緊張感や達成感を味わっていたいんです」

 いつか完全燃焼することはあるだろうか。その質問に正田は静かに答えた。「ないかもしれないですね」。ゴールがどこにあるのか分からない。今知る必要もないのかもしれない。ただ、正田は野球と真摯に向き合い、一瞬一瞬を生きている。(コンテンツ編集部・高柳 義人)

 ◆正田 樹(しょうだ・いつき)1981年11月3日、群馬・太田市生まれ。35歳。韮川西小4年から野球を始める。太田北中から桐生第一に進み、2年夏の群馬大会で5回参考の完全試合。3年夏は日本一。99年ドラフト1位で日本ハムに入団。3年目の01年に新人王。07年の開幕直前に金沢健人とのトレードで阪神に移籍。1軍登板なく08年に戦力外通告。09年は台湾・興農(現・富邦)でプレーし14勝で最多勝、115奪三振で最多奪三振。10年オフに契約を解除され、翌11年はレッドソックスとマイナー契約も45日で解雇。同年5月にBCリーグ・新潟入り。12年はヤクルトでNPB復帰を果たし、13年には8年ぶりの白星を挙げるも同年オフに戦力外通告。14年は台湾・Lamigoでプレーも5月に解雇され、愛媛入り。15年は年間MVPに輝いた。185センチ、95キロ。左投左打。血液型A。

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