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難病・黄色靱帯骨化症を克服 元楽天・井坂亮平さんが語る闘病と営業マンとしての“覚悟”

2017年12月13日10時45分  スポーツ報知
  • シダックスで営業マンとして活躍している元楽天・井坂亮平さん
  • 現役時代の井坂さんの投球フォーム
  • 井坂さんの初登板初勝利を報じるスポーツ報知(2009年5月6日付)
  • 初勝利を挙げ野村監督(左)からウイニングボールを受け取り笑顔の井坂さん

 朝8時台の新宿駅。改札口からはき出され整然と、それぞれのオフィスにのみ込まれるサラリーマンの中でも、一際目立つ186センチの長身。元楽天投手の井坂亮平さんは、現在営業マンとして新たな道を歩んでいる。

 昨年、シダックスに入社。現在はフード事業を扱うシダックスフードサービスに所属し、営業推進担当として都内を飛び回っている。社員食堂や病院・老人ホーム・寮などの食堂の業務を受注すること。「企業に行って社員食堂の業務を委託しませんか、と提案させてもらっています」と井坂さんは話した。

 社内で見積書や企画書を作成し、営業先ではノートパソコンを駆使し、プレゼンを行う。「パワポ(パワーポイント)も使えるようになりましたし、食事業界のキャッシュ・フローも理解しています。たまには現場に出て皿を洗ったり、食事を出したりもしています」。現在は既存営業として取引先を中心に回るが、入社当初は新規開拓の“飛び込み営業”も経験した。

 受付で“門前払い”されることも日常茶飯事。失敗談もある。「ある企業に飛び込んで『シダックスですが、社員食堂の見直しはいかがですか』ってお話させていただいたら、『ウチはシダックスさんと契約していますよ』って返ってきて…」。今だから笑って振り返ることが出来るが、入社直後は取引先に営業に行ってしまう、初歩的なミスも犯した。

 戦力外通告を受けたのは2014年オフだった。「野球を辞めて“やりたいこと”が見つからなかったです。何をやっていいか分からなかった」。知人の紹介で不動産会社に勤め、投資マンションの営業を1年務めた。その後、高校時代の恩師・持丸修一監督(現・専大松戸監督)に相談し、シダックスを紹介してもらった。直属の上司は、中大の先輩・入江崇宏さん。社会人野球シダックス(06年廃部)で主軸打者として活躍し、現在は執行役員を務めている。「入江さんは色々と教えてくれる。面倒見てもらって、本当に恵まれていますね」と人との縁に感謝した。

 井坂さんのプロ野球生活は華々しく幕を開けた。1年目の5月5日、西武戦(西武ドーム)でプロ初登板初先発で6回3失点で初勝利を挙げ、球団史上初の新人デビュー戦白星を飾った。セギノールがウイニングボールを客席に投げ入れてしまい、ナインがお願いして急きょファンにグラウンドに投げ返してもらったというエピソードもある。

 セギノールの行動にはその後も驚かされた。試合後に知り合いとともに食事に行ったステーキ店には、偶然、セギノールとリックが先客として食事をしていた。「リックとセギノールがケーキを頼んでくれて『初勝利おめでとう』とサプライズで祝福してくれたんです」。今でも鮮明に思い出せるうれしいひとときだった。「やっとスタートラインに立てたなと…。おごりはなかったと思います」。ルーキーイヤー、2年目は2勝ずつ。3年目の11年は、10月5日に日本ハム・ダルビッシュに投げ勝つなど自己最多の3勝をマークしたが、その後、原因不明の病魔と戦うこととなった。

 体の異変を訴えたのは翌12年の春だった。「左足にしびれに近い違和感がずっとあったんです」。だましだましプレーしたが、症状は改善しない。次第に左足が上がらなくなった。病院で検査を受けたが、原因が分からなかった。「仙台、横浜、福島と(病院で)検査を受けました」。4か所を回り福島医大で病名が特定されたのは10月だった。

 特定疾患の難病・黄色靱帯(じんたい)骨化症だった。背中の靱帯が骨のように硬くなり神経を圧迫し、まひを起こす。巨人・越智大祐、ソフトバンク・大隣憲司(ともに退団)らも発症した病気だ。同年12月に手術。背中を切開し、骨化した靱帯を取り除く3時間の手術を受け、育成契約としてのリハビリが始まった。

 手術によりしびれはなくなったが、今度は肘に痛みが走った。6月に骨棘除去手術を受けた。「結果を出さないとクビになると思っていたので…。トレーナーと球団と相談して、自費でもいいからと…。たぶん自費だったと思います」。後悔したくないと手術を受け、2軍のホーム最終戦となった9月21日のDeNA戦(利府)で約1年ぶりの登板を果たした。

 翌年も育成選手としてプレーも2軍で19試合の登板に終わった。「病気でダメになったとは思っていない。痛みも無くなり体の不安はまったくなかったんですが、自分の(投球)フォームがイメージと違うんです」。映像で確認すると明らかだった。「今は(体を)こういう使い方が出来ていると思って投げていても(映像を見ると)怖さが残っててかばっているように投げている。客観的に見ると分かるんです」。自身が頭で思い描くイメージと実際の動き。わずかな“ズレ”は最後まで修正できず、現役生活に別れを告げた。

 「いざ戦力外通告を受けると焦るんですよね。自分の場合は7月に(支配下選手登録に)上がれなかった時点で(戦力外になる可能性が高いと)うすうす分かっていたんですけれど…。準備していなかったですね。甘いですよね」。頭では理解していても行動としては踏み出せなかった。「セカンドキャリアは誰もが通る道です。(球界全体や球団でも)セカンドキャリアの講習を定期的にやったほうがいいと思います。やることが分からない。やりたいことが見つからないというのは、本当に苦しいですよ」と当時、置かれた自分の状況を思い起こし、後輩たちへ言葉をつなげた。

 6年間の現役生活で挙げた白星は最初の3年間の7勝。病気が発症してからの3年間は1軍昇格を果たせなかった。野村克也、ブラウン、星野仙一と3人の指揮官に仕えた。「今思うと実力でない部分で使ってもらったと思う。チャンスももらったし感謝している。そのチャンスを生かし切れなかった」と言う。

 「3年目くらいまでは何となくやって、何となく結果が出て…。周りから色々とアドバイスをもらったんですが、今思えば、もっと素直に聞いておけば良かったですね」。病気を機に心構えも変わった。「背中を手術したときから、自分で考えることが増えました。しっかり責任を取ろうと覚悟が決まりました。病気になったことを悔やんだりすることはないですね」。

 責任と覚悟―。それはサラリーマンになって一段と強くなった。「プロ野球選手は球団に所属していると言っても個人事業主。練習をしてもしなくても全部自分に跳ね返ってくる。今は会社の看板を背負っていますから、ミスをすれば会社のイメージが悪くなる。プレッシャーもありますよね」。

 仕事をする上で、元プロ野球選手であることはあえて言わないようにしている。それでも「(交渉相手に)楽天ファンの人がいたんですよ。名刺渡した時に、(名前を見て)『楽天の井坂さんですか?』『応援していたんですよ』って言われました。成約には至らなかったですけれど、うれしかったですね」と話した。

 満員電車に揺られて出社し、営業先を回って帰宅すると午後10時過ぎになることも。プロ野球は結果を確認するくらいになった。そんな中、後輩の活躍は刺激になっている。楽天の美馬だ。藤代高、中大と直系の2年後輩になる。美馬が新人時代の11年10月のフェニックスリーグで、2人の継投が実現した。高校、大学を通じて初めて同じ試合で投げたが、それが唯一の機会となった。「プロでやってるときは後輩だけど(同じポジションで)ライバルという思いもあった。今では100%応援しています。頑張って欲しいです」。

 今の会社に入社して、上司に言われた言葉がある。「最初は『種をまきなさい』。そして水をあげることで収穫ができる」。野村克也さんがヤクルト監督就任時に語ったとされる言葉「1年目には種をまき、2年目に水をやり、3年目に花を咲かせよう」と重なる。井坂さんは営業マンとして勉強の日々を送る。「早く一人前の営業マンになって、人間的な成長をしたいですね」。焦らずコツコツと前を見て進んでいる。(コンテンツ編集部・高柳 義人)

 ◆井坂 亮平(いさか・りょうへい)1984年10月19日、茨城・取手生まれ。33歳。兵庫・姫路市の城西小2年で「城西ブルーサンダース」で野球を始める。取手東中を経て、藤代に進学。2年春の2001年センバツに出場、初戦(2回戦)の四日市工戦で1―0の完封勝利を挙げたが、3回戦で準優勝した仙台育英に敗れた。中大では1年春からベンチ入りし、1部リーグ通算1勝。その後は住友金属鹿島(現新日鉄住金鹿島)でプレー。07年に右ひじの靱帯再建手術を受け、08年ドラフト3位で楽天に入団。09年5月5日の西武戦でプロ初登板初先発で初勝利を挙げた。13年から育成契約となり、14年で戦力外通告を受け退団。NPBでは実働3年で7勝12敗、1ホールド、防御率4・96。現役時代のサイズは186センチ、75キロ。

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