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“青い稲妻”元巨人・松本匡史さん、12年ぶりユニホームで描く夢 BC滋賀監督就任

2018年1月9日10時45分  スポーツ報知
  • ダンディーな松本匡史さん、現場復帰への意欲を語った
  • 華麗な走塁を見せる“青い稲妻”松本匡史(右は中日・宇野、1981年)
  • セ・リーグの盗塁記録を更新した時の報知新聞1面 青い稲妻の文字が躍る(1983年10月4日付)
  • 伊東キャンプで長島監督(当時、左)の指導を受ける松本匡史(1979年)

 “青い稲妻”がグラウンドに帰ってくる。元巨人・松本匡史さん(63)がBCリーグ・滋賀ユナイテッドの監督に就任。2006年で楽天ヘッドコーチを退任して以来、12年ぶりに現場復帰することになった。

 BC滋賀は昨年、リーグに参入して2年目。四国IL4球団、BCリーグ10球団の独立リーグ計14球団の監督の中でも最年長となる。なぜ引き受けたのか。「オファーを頂いてかなり悩みました。生活のこと、1番は年齢のこと。本当に出来るのかと…。大変なことは分かっていましたしね」。

 昨夏に就任依頼を受けてから3か月以上、熟考して結論を出した。評論家として解説を行い、野球教室で少年を指導する日々。心の奥底にまだ野球への情熱が消えていないことを感じていた。「若い子をNPBに送り込むのは夢のある仕事。ユニホームにもこだわりがあるし、今はワクワクしていますよ」。温厚な性格らしく淡々と言葉を選んだ。

 失敗を糧にする。06年は球団創設2年目の楽天で野村克也監督の下でヘッドコーチを務めたが、1年で退任した。「失敗しているからね。(当時は)パ・リーグの野球も知らない、選手も知らない、勝負勘もなかった。野村さんへのアドバイスもろもろできなかったからね」。最初はフロント主導で2軍監督のオファーだった。その後、田尾監督の解任、野村監督の就任となり急転し、参謀役となった経緯がある。「2軍監督は十分出来ると思っていた」。巨人でも1995年から3年間、2軍監督を務めていた。育成への思いは昔から強く持っていた。

 苦しかった1年で得た、“野村の教え”も生かす。「野村さんのベンチでの一言一言を聞いたり、ミーティングでの話も生きてくると思う。選手とはコミュニケーションが一番必要。面談してどんどんやっていこうと思う」と選手との対話を重視する方針を示した。

 松本さんの代名詞となった“青い稲妻”のニックネームはひょんなことから生まれた。今でも語り継がれる79年秋の“地獄の伊東キャンプ”で、長嶋茂雄監督の指導を受けスイッチヒッターに挑戦した松本さんは俊足を武器に次第に頭角を現した。松本さんは言う。「新聞記者に付けてもらったんです。当時はホームの時は白色の、ビジターでは青色の手袋をしていたんです。(記者から)『(使い分けるのではなく)どっちかにしてくれない?』と言われて青色で固定したら、ニックネームがついた」と回想する。白を選んでいたら? 素朴な疑問に松本さんは「すばしっこいイメージで白ヘビとかになっていたかなぁ」と笑った。

 名付け親の報知新聞・山田収さんは「当時はキャッチフレーズを付けるのがはやっていたんです。定着したのは少なかったけれど…。柴田(勲)さんが“赤い手袋”と言われていたのでね。一緒に食事したときに『青にしてくれ』って言ったと思う。白は弱々しいしね。(信号では)赤はストップで、青はゴーだから(俊足の)イメージにも良かった」と振り返る。最初は“青い疾風”にしようと思ったが、力強さを出すために“青い稲妻”にした。活躍とともに次第に定着していった。

 「走れ、走れ、二塁ベースへ~ ラララ、光より速く~ ララ 青い稲妻~」。有名となった応援歌とともに、松本さんは走りまくった。82年に62盗塁で盗塁王に輝くと、翌年記録したシーズン76盗塁は現在もセ・リーグ記録として残っている。「ニックネームはうれしかったね。全員にあるわけでもないし、一流選手の証しでもあるからね。昔は色にはこだわりはなかったけど、あのときから青がラッキーカラーですよ」。

 走塁へのこだわりは強く持っている。「走塁面は意識的に教えていきたい。焦りすぎてもダメ、のんびりしすぎてもダメ。その感覚は試合でつかむしかない。1点取るためには何をしたらよいのか、前もって準備することが大切なんです」。盗塁もどんどん仕掛ける。「これも感覚で覚えるしかない。(意識するのは)成功率ではなく数だと俺は思っている。成功率を評価しすぎるとスタートを切らなくなる。(投手の)クセもあるけれど感覚、勇気が必要なんです。これも上(NPB)に行ったときに武器として使える。早いうちに教えたい」。

 久しぶりでの関西での生活になる。「初めて琵琶湖を見ましたよ。(まるで)海だよ」。関西での生活は、兵庫・報徳学園を卒業した18歳以来だ。松本さんは遠い目で「野球ができるというのはいいよね」とつぶやいた。そして関西への“帰郷”はもっともっと早かったかもしれない。20年以上前、今でも心にささくれ立って残る少しの悔恨を語ってくれた。

 松本さんは1987年オフ、本拠地・後楽園の閉場とともに巨人を引退した。東京ドームでプレーすることはかなわなかった。球団から受けた最初の連絡は秋季練習中だった。「宿舎に電話があって、(来季の)構想から外れるかもしれないと言われた」。意外な通告に動揺した。「でも秋季練習が終わるまで帰らずにそこにいてくれって言われてね。新聞記者がいるからって」。言いつけを守り滞在したがもちろん練習に身が入るはずもない。正式な通告はファン感謝デー終了後に球団事務所で受けた。「『構想から外れた。任意引退だ』って言われて、やめるしかなくなった」。

 ぼう然とする松本さんにその後、阪神からオファーが届いた。「ウチが獲ることは可能ですか。(巨人に)聞いてもらうことはできますか」。ライバル球団からの誘いだった。巨人に確認した。「他の球団に行けますか?って聞いたら、『ちなみにどこの球団か』と言われた」。先方との約束で阪神という名前は出すことは出来なかった。「言えません」「セ・リーグか? パ・リーグか?」「セ・リーグです」「ダメだな」短いやりとりで縦じまのユニホームを着ることはかなわなかった。どこでも行ける自由契約と違い、任意引退は球団の許可が必要である。「“戦力外”だったら自由契約のはず。でも言われるままに任意引退をのみ込んでしまった。もっと自分で考えないといけなかったな…」。

 波乱万丈の現役生活だった。脱臼癖のある左肩を当時は球界に前例がない手術で治し、左打ちに取り組みスイッチヒッターに挑戦。同時に内野から外野へのコンバート。礎となった伊東キャンプ。涙を流しがらバットを振り、白球を追った。「スイッチなんて出来るはずがないと思っていた。でもやるしかなかった。人生で一番練習したね。今でも頭の中に浮かんでくるよ」。たゆまぬ努力の果てにつかんだ輝かしい栄光。巨人一筋で走り抜けた現役生活には感謝しているが、完全燃焼できなかった思いもある。「あとから思ったね。現役を続けたいという気持ちをもっと強く持っていれば良かったなって」。これから指導する若い選手たちにも、現役でプレーすることの大切さを教えていくこと使命だと思っている。

 自分の子供以上に年の離れている選手と相対する。「若い選手には可能性がある。楽しみだね」。青い稲妻2世である必要はない。自分のようにニックネームで呼ばれるような選手を輩出したい。松本さんは静かに闘志を燃やしている。(コンテンツ編集部・高柳 義人)

 ◆松本 匡史(まつもと・ただし)1954年8月8日、兵庫生まれ。63歳。報徳学園で2年春夏甲子園出場。早大では当時の六大学記録となる通算57盗塁をマーク。日本生命に内定していたが、長嶋監督の強い要望で76年ドラフトで巨人の5位指名を受け入団。80年にスイッチヒッターとなり内野から外野へ転向。82年、83年と連続盗塁王。83年はセ・リーグ記録の76盗塁をマークしベストナインに輝く。守備の名手に贈られるダイヤモンドグラブも81年から3年連続で受賞した。87年で引退。通算成績は1016試合、3250打数906安打、打率2割7分8厘。195打点、29本塁打。342盗塁。89年に巨人の外野守備走塁コーチに就任。95年から3年間、2軍監督を務め、02年から05年までスカウトを歴任。06年には楽天のヘッドコーチを務めた。現役時代のサイズは180センチ、73キロ。

 ◆BCリーグ(ベースボールチャレンジリーグ)2005年にスタートした四国IL(アイランドリーグ)に続く2番目の独立リーグとして、2007年に北信越BCリーグとして新潟、富山、石川、信濃(長野)の4球団でスタート。08年に群馬、福井が加入し6球団となり「北信越」を外しBCリーグに。15年から武蔵(埼玉)、福島が加入、17年に栃木、滋賀が加入し10球団となった。

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