【阪神】星野監督、母の死隠し18年ぶり優勝 甲子園で舞った…03年9月16日付復刻記事

スポーツ報知
阪神優勝を伝える03年9月16日付けのスポーツ報知1面

◆阪神3―2広島(2003年9月15日・甲子園)

 甲子園の夜空に、阪神・星野仙一監督(56)が舞った。Vマジック2で足踏みの続いた阪神は15日、赤星のサヨナラ打で広島に劇的勝利。2時間後にはヤクルトも敗れたため、18年ぶり、1リーグ時代から通算8度目(セでは4度目)の優勝が決まった。

 甲子園に待機していた5万3000人のファンが見守るなか、39年ぶりの本拠地胴上げで、球団新の81勝目で決めた優勝に実母の死を隠してきた闘将がVの字を描き、浮かび上がった。10月18日からの日本シリーズで2度目の日本一に挑む。

 飛び回って勝利の雄たけびを上げるナインの後ろから、星野監督はゆっくりとグラウンド中央の輪へ進んでいった。両目が潤んでいる。次の瞬間、無数のフラッシュの中に、顔をクシャクシャにした背番号77が浮かび上がった。1度、2度…。左手で帽子を握りしめて7度、宙を舞った。

 「あぁしんどかった」優勝インタビューで第一声を絞り出すと、指揮官は「苦しい時代を乗り越えて、夢に日付を入れることができました!」と、感情を爆発させた。整列して見守るナイン。目を真っ赤にした島野ヘッドコーチの手には、97年1月31日に51歳で亡くなった扶沙子夫人の遺影が掲げられていた。

 実は、悲しい別れがあった。13日に、女手ひとつで自分と2人の姉を育ててくれた母・敏子さんが肺炎のため91歳で亡くなった。突然の悲報に14日の中日戦後、名古屋から大阪・茨木市内の母の自宅へ車を飛ばし、通夜に駆けつけた。この日の朝、営まれた葬儀には参列できなかったが、悲しみを最後までナインに見せなかった。

 ―母がまだ若い頃 僕の手を引いて…後援会のパーティーでも歌うほど、指揮官の好きな曲がグレープの「無縁坂」。歌詞をかみしめるたび、昔を思い出す。けんかして泣いて帰ってくると、泣きやむまで家に入れてもらえなかった。女家族の中で、だれよりも男らしく育ててくれた。「何で優勝まで生きとらんかったんや。でも、最後まで元気やったし苦しんだわけじゃないからな」厳しく、優しかった母へささげる優勝でもあった。

 1969年のプロ入り以来、慣れ親しんだ名古屋を離れたのは2年前の2001年。「周囲には“今までの成功を捨てることになる。やめとけ”って反対されたけどな。おれは冒険家なのかもしれん」決断してからは、大胆な手腕で球団を改革した。1年目こそ4位だったが、オフには金本、伊良部ら大補強に成功。春先から走り続けた。

 独走ムードになった夏場からは、すさまじいプレッシャーと戦い続けた。「これで優勝を逃したら、日本には住めない」睡眠薬を飲んでも眠れない日々が続いた。持病の高血圧と糖尿病に加え、胃の調子も悪化。7月27日の中日戦(ナゴヤドーム)では試合中に嘔吐(おうと)、ダウンした。「検査なんかしない。もし悪かったらどうするんや。監督業を放り出せるわけないやろ」と、虚勢を張り続けたが、今月1日には大阪から遠征先の広島への移動日に、故郷の岡山駅で途中下車。市内の病院で極秘に精密検査を受けた。体は悲鳴を上げていた。

 12日から名古屋で行われた中日3連戦では、マジック「2」を減らすことができなかった。「ナゴヤドームで宙に舞う姿を見たい」―。ドーム開場直前に亡くなった扶沙子さんが、病床でつぶやいた言葉が忘れられない。約束を果たせなかったことだけが、心残りだった。「でも、名古屋を離れたことも、生きていたら理解してくれたはず。阪神での優勝も喜んでくれるよ」深い絆(きずな)があるからこそ、未知の土地で信念を貫くことができた。

 マジック9とした2日に予想した通りの甲子園V。ただ日本シリーズには、現役時代と中日監督時代に2度ずつ出場しているが、頂点を極めてはいない。「選手を信じ、日本一を目指して戦ってきます!」マンモススタンドへ高らかに宣言した熱血監督。“夢”への挑戦は、まだまだ続く。(長瀬 哲也)

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