高塚信幸さん、球児に魂のエール!96年センバツ 智弁和歌山悲劇のヒーローの現在地

スポーツ報知
兵庫県洲本市で義父とすし店「金鮓」を営む高塚信幸さん

 第90回センバツ高校野球大会が23日に開幕する。円滑な日程運営とともに、登板過多による投手の故障防止など選手の健康管理の観点から「延長タイブレーク制」が採用される初の大会。新制度について、導入のきっかけとなった“悲劇のヒーロー”は何を思うのか。1996年センバツで準優勝した智弁和歌山の2年生エース、高塚信幸さん(38)は連投によって肩を故障。人生が大きく転換した。現在すし職人となった高塚さんが、球児に送った意外なエールとは―。

 淡路島の中央に位置する兵庫県洲本市に「金鮓(きんずし)」はある。義父が24年間、同市内で営んでいた店を現在の場所に移転させたのは04年。たたずまいは、さながら高級料亭。著名人もしばしば訪れる名店だ。

 「すし屋とは思えないでしょ。店の前から『場所が分からない』って電話がかかってくるんです」

 すし職人に転身して約14年になる高塚さん。温和な人柄と、丁寧な仕事ぶりが支持されている。淡路島は、ネタの宝庫だという。

 「マグロ、イクラ以外は近辺で全部取れます。特に6月の終わりぐらいから取れる赤ウニは絶品。親指ぐらいの粒をしてるんですが、これがむちゃくちゃうまい。僕は淡路に来るまでウニが嫌いやったんですが、好きになりましたね」

 97年ドラフト7位で近鉄に入団も6年で戦力外通告。妻の実家を継ぐ決心をし、京都で修業を始めた。昼はホテルの日本料理店、夜はすし店で基礎を学んだが、初めは苦労の連続だった。

 「薄刃包丁と大根を渡されて『“かつらむき”せえ』と。薄刃は刃を上下に動かさんとアカンのですが、大根にあてた包丁が動けへん(笑い)。これ無理ちゃうかな、3日で逃げよう、と思いました。そしたら3日目に包丁が動くようになって。少しずつできるようになって、まぁなんとか」

 師匠には感謝しかない。

 「2人ともホンマええ人で。野球部の時みたいに、ドツかれとったら続いてなかったかもしれないですね。休み前日、『残ったネタとシャリで握って持ってこい』と言われて、店の片づけが終わった(深夜)1時くらいから始めるわけです。最初のうちは時間かかるじゃないですか。3時、4時に家に行ったら、起きて待っててくれてね。みんなに助けられたというか」

 客の笑顔に喜びを感じる。

 「おいしかった、と言われたらやっぱりうれしい。僕がいるのを知らずに来られた方もいて『え、まさか。大ファンやってん』と」

 高塚さんの名が全国に知れ渡ったのは96年センバツ。2年生エースは、140キロ台の直球を軸に快投を演じた。延長13回を完封した国士舘との準々決勝を含む、1回戦からの5試合で投じた球数は実に712。2回戦から決勝までは4日連投だった。

 「今考えたら、すごい日程ですね。体中がパンパン。ホンマ、雨降ってくれと思いました。カーブの投げすぎで右肘の外側が腫れてましたけど、変な痛みじゃなかった。肩も、張りはありましたが、全然投げられました」

初回落球ガクッ 夢をかなえるため、自分の意思で投げ続けた。後悔は全くない。

 「高嶋監督は毎日『体はどないや?』と気遣ってくれてました。高校に入った頃はプロへなんて思ってもなくて、甲子園での優勝が目標でしたから。全部投げきりたい気持ちの方が強かった。あの頃、酸素カプセルがあったらどうやったかなと思いますが(笑い)」

 気力を振り絞って上がった鹿児島実との決勝マウンドだったが…。

 「初回先頭やったかな。フライを一塁手が落としたんです。あれでガクッとなった。そして3点。いつもやったら、ええよ、ってなるんですけど、さすがに(苦笑)」

 センバツ後、代表に選ばれたAAAアジア選手権でも問題なく投げられた。しかし、しばらくして右肩に違和感が生じる。その時は、人生を左右するような重症になるとは想像もしなかった。

 「元々、肩が張りやすく連投がきかないタイプでした。先生に『休んどけ』と言われて1か月ぐらいノースローにしてたんですが、投げ始めたら脇腹が痛くなってきて、そこから肩に。休んだことでフォームがバラバラになったというか。福岡の有名な先生の所に入院して治療もしましたが、休まない方がよかったんじゃないかなと思いますね」

 本来の姿を取り戻せず、同年夏の甲子園では登板なし。日本一に輝いた3年夏の甲子園も、1回戦で序盤にKOされると再び出番は来なかった。早々と指名の確約をしてきていたダイエー(現ソフトバンク)も断りを入れてきた。一時はプロ入りを諦めたが、母校で打撃投手をする姿が近鉄スカウトの目に留まった。

 「指名されたらプロへという条件でトヨタ自動車に内定をもらっていて。社会人からプロに行く自信はなかったので、行ける時に、と思ってました。投げられなかったら打者でも、と」

驚き…イップス 肩に不安を抱えたまま入団。99年に2軍で5勝を挙げたが、1軍レベルには届かず00年オフに野手転向。結局1軍出場はかなわないまま、03年に引退した。

 「ずっと、肩にボールを投げてる感覚がないんです。イップスにもなってました。ショートスローができない。キャッチボールも、どこにいくか分からない。打撃投手をやると、球がケージの上にいくんです。驚きましたよ」

 現在は中学硬式野球チーム「ヤング淡路」でコーチを務め、この春からは長男・凜君も入団する。選手を預かる立場として、タイブレークの導入や今後議題に上ると思われる投球回数、連投の制限などをどう見るのか。

 「選手のことを考えたらいいと思います。投手の負担も少なくなる。昔とは、また違ったドラマが生まれるんじゃないですかね」

 ただ、別の思いも。

 「やるだけやって、壊れたら壊れたでもいいと思いますけどね。結局、僕もそうですが、壊れたらそこまでの選手なんです。壊れないヤツらが上に行ける。最近そう思います。松坂やダルビッシュがそう。けがする選手は弱いんです。今の子は、すぐ『しんどい』。やれるだけ、やってみろと」

 自分の限界を超すチャレンジは糧になる。

 「プロだけが人生じゃないですから。現に僕はすし職人をやれています。よその子に対しては、体は大事に、と言わなしゃあないですが、息子には、やれるだけやってこい、と言います。壊れたら終わり、で。息子は『すし屋もしたい』って言ってますから。プロに行っても、終わった後の方が人生長いですからね」

 “魂”を後進に伝えたい。

 「60ぐらいで息子に店を任せて、少年野球の監督をしたいなと。子供って、ひと冬越したらものすごい伸びるんすよ。打球を見ても全然違う。エースも、ええ球投げよるんです。あんなの見たら、たまらんすね。楽しみで」

(取材・田中 俊光)

 ◆タイブレーク 試合の早期決着を目指して、延長戦で人為的に走者を置く特別ルール。延長13回以降の攻撃を無死一、二塁から開始(打順は12回から継続)。夏の甲子園、全ての地方大会でも導入される。甲子園、地方大会とも決勝戦では採用せず、延長15回で打ち切り、再試合を行う。社会人では都市対抗で03年から、全日本大学選手権は11年から、国際大会では08年北京五輪のほか、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも09年の第2回大会から採用された。

 ◆高塚 信幸(たかつか・のぶゆき)1979年8月2日、和歌山市生まれ。38歳。中学時代は和歌山シニアでプレーし、智弁和歌山高に進む。96年センバツ準優勝(5試合47回、自責点5、防御率0.96、38奪三振)。97年ドラフト7位で近鉄入団。99年に2軍のローテーションを守って5勝を挙げたが、2000年オフ、野手に本格転向。03年限りで引退。1軍登板なし。2軍では投手として通算39試合に登板(99、00年)、5勝5敗、76奪三振、防御率3.37。打者では通算134試合(99~03年)、打率2割1分4厘(140打数30安打)、3本塁打、23打点。

 ◆甲子園熱投メモ 98年夏の準々決勝・横浜―PL学園戦。横浜・松坂(中日)が17回、250球を投じたことを契機に00年春、延長18回から15回に短縮された。13年センバツ準優勝の済美・安楽(楽天)は5試合で計772球。その後、右肘を痛めたことが物議を醸した。

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