元C正田さん、韓国で“プロ魂”伝授「広島、DeNAがV争い、Tロサリオに太鼓判」

スポーツ報知
韓国プロ野球・KIAタイガースで打撃コーチを務める正田耕三さん。異国の地でセカンドキャリアに励む(2月、沖縄・宜野湾市のアトムスタジアムで=カメラ・関口 俊明)

 80年代中盤からプロ野球・広島カープで長く中心選手として活躍した正田耕三さん(56)は現在、韓国プロ野球・KIAタイガースで1軍打撃コーチを務め、熱血指導によって昨年チームを8年ぶりの優勝に導いた。現役時代には、身長170センチの小柄ながら“練習の虫”と呼ばれたほどの努力によって2度の首位打者、盗塁王、ベストナイン、ゴールデン・グラブなど数々のタイトルを獲得。故障しても休まなかった伝説を持つ小さなファイターは異国の地で、努力で培った技術理論だけでなく“プロ魂”も伝えている。

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 13年から8位、8位、7位、5位と低迷していたKIAだったが、昨年、一気に覚醒。公式戦を1位で駆け抜け、韓国シリーズを制して8年ぶりの頂点に立った。

 「僕の力ではないですよ。選手が頑張っただけで。ただ、いかにつないで、いい投手からでも点を取るか、四球や犠打、進塁打の大事さ、次のプレーに対する準備の大切さは細かく言い続けました」

 意識改革が実を結んだ。

 「韓国には、強く振りたい、遠くへ飛ばしたい、という選手が多い。僕が初めて行った頃、打撃練習はホームラン競争のようでした。アマ時代に“つなぐ野球”なんて教わってないですから。今は中堅から逆方向を意識するようになった。選手の考え方が変わってきて野球も変わった感じですね」

 08年秋、旧知の監督に招かれ、翌年までSKでコーチを務めた。オリックスのコーチなどを経て、15年に再び渡韓。ハンファで打撃コーチなどを2年間務め、昨年、金杞泰(キム・キテ)監督の要請を受けて打撃コーチに就いた。07年から巨人で育成コーチ、2軍打撃コーチを務めた経験のある同監督の信頼も厚い。

 「監督は『全部任せます』と言ってくれているので、やりたいようにやらせてもらっています。コーチは中間管理職で難しい仕事ですが、やりがいはありますね。『口うるさく言うのも、お前に可能性があるからや』と選手に説明しながらね」

 韓国に渡って学んだことも。

 「監督はよくコーチ陣に『どれだけやらせたかではなく、どれだけ選手が集中してやったかですよ』と言います。全体練習が(午後)3時半ぐらいに終わって自主練習になるんですが『コーチは宿舎に帰って下さい。選手が自分で考えてやる時間も大事ですから』と。縛ってしまうと自覚は生まれないですよね。コーチが満足してはダメ。それは韓国で学んだことですね」

 阪神の新外国人ロサリオを16年にハンファで指導。2年連続3割、30本、100打点を挙げたスラッガーだが、当初は左肩の開きが早く、外角の変化球を追い掛けるタイプだったという。イスに座らせてのティー打撃などで下半身の動きを矯正し、確実性をアップさせた。

 「体の左側の“壁”がしっかりできてバットが内から出るようになったことで、内角球をさばけるようになりました。外角の変化球は引っ張らず右方向へ、と考え方についても助言しました。彼の一番の長所は向上心。やり過ぎるぐらい熱心に練習に取り組み、人の意見にも素直に耳を傾ける。ナイターの日でも午前中から練習したり、試合中にブルペンで打っていたことも。本塁打数はともかく、間違いなく100打点は挙げると思います」

 異国での単身生活も合わせて約4年になる。

 「もう慣れましたね。ある程度、会話もできますし、買い物も1人で行く。全く不自由はないですよ」

 韓国でも昨今、野球人気が再燃しているという。KIAの本拠地・光州(カンジュ)の人口は約150万人ながら、昨年は102万人超の観客を動員。リーグ全体でも840万人を超え、過去最多を更新した。

 「KIAは日本で言えば阪神のような人気球団ですが、去年は特にすごくて連日満員でした。入場料も安いんです。家族4人で食事を含めて(日本円で)1万円で収まるように、というのが(観戦)コンセプト。飲食物の持ち込みOKで、出前を頼む人もいる。席もゆったり。まさにボールパークです」

 84年ロス五輪代表として金メダルに貢献し、同年ドラフト2位で広島に入団。1年目の秋からスイッチヒッターに挑戦し、「2番・二塁」に定着した3年目、スイッチとして初の首位打者に輝く。「本塁打0」は戦後、唯一。翌年も首位打者、89年には盗塁王。三拍子そろったプレースタイルは血のにじむような努力によって培われた。

 「練習させられた、じゃなしに、自分で練習しましたね。人よりうまくなるためには練習するしかない。もっと練習できたんじゃないか、と常に考えていました。右打席で全然打てずにスイッチに挑戦したんですが、バットに当たらない。右投手のスライダーなんて、ホンマに消えましたよ。内角球も逃げられなくて体に当たってしまう(笑い)。でも、世の中に“無理”はないですよ。やればなんとかなります。阿南監督(当時)も、よく我慢して使ってくれました」

 故障中も練習を欠かさなかった。

 「他の選手に抜かれるのが怖いんですよね。とんでもないお金をくれるわけですから、稼がないと損。練習したらいいだけの話です。練習したら打てるようになる。じゃあ、もっと練習したら、もっと打てるようになるんじゃないか、と考えるんです。その時はしんどいですよ。でも、バットを振ってる時間なんて長くても1日2、3時間。大した時間じゃない。まぁ基本的に野球が好きなんでしょうね。それはコーチになっても変わりません。やっぱり1人でも2人でもうまくなってもらいたいですから。僕みたいに追い込む選手?いませんね(笑い)」

 86年のリーグ優勝は格別だった。

 「あの時、生まれて初めて野球をやっててよかったと思いました。神宮球場が真っ赤に染まって、こんな中で野球ができるって幸せだなと。まだレギュラーではなかったですが、ああいう感動は後にも先にもない。五輪の金、去年の優勝もうれしかったですけど、やっぱり感覚が違いました」

 頂点に立った者にしか分からない境地がある。

 「タイトルを獲った時はうれしいですよ。ただ、その後が大変なんです。それまで打てなくても応援してくれていた人が、打って当たり前という目に変わる。続けて成績を収めなきゃいけない使命感。それに応えるのがプロでしょうが、こんなにも変わるか、と。それは五輪選手でも同じだと思いますね」

 現役最終年となった98年も110試合に出場。103安打を放ち、2割7分4厘の打率を残したが、あっさりと幕を引いた。

 「僕は“攻守走”の一つでも欠けたらユニホームを脱ぐつもりでいました。最後の方は、肩と膝を痛めて守れなくなった。代打で使ってもらえれば打てるかもしれない。でも、最初から最後まで試合に出てこその正田、だと思ってましたから。辞める必要はなかったと思いますが、やり残したこともなかったので」

 カープのやっていたレベルの高い野球が指導のベースにはある。

 「一番いいのはノーヒットで点を取ること。相手に与えるダメージは一番大きいですからね。相手に考えさせろ、と選手にはよく言っています。例えば、けん制が来ると思ったら、逆を突かれたふりをして帰塁する。すると捕手は『走ってきそうだな』と考えます。相手にプレッシャーをかける。そういうことを現役時代のカープではみんなやってました。先輩を見ながら、いろんな攻撃の仕方があるんだな、と」

 努力したものだけが一流になれる。

 「“無駄”をしないと“無駄”は分かりません。10通りの練習の中で、自分に合うものが2つだったら8つは無駄。でも、無駄なことをやったから、それが分かるわけです。この練習だけやってれば大丈夫、というところにたどりつくまでには、いろんなことをやらないといけない。ベテランの練習時間が短くなるのはそういうこと。若い頃からいろんな練習、経験をして、自分に不必要なものを振り落としていく。それが一流選手のやることです」

 今年も古巣・カープと共に優勝を狙う。

 「キャンプ中、何球団かと試合をしましたが、広島とDeNAには“雰囲気”がありましたね。選手がどうこうじゃなく、チームの“雰囲気”ってあるんです。DeNAは声がよく出ていて明るい。阪神は少し落ちるかな。巨人、中日には活気がないというか…。カープは間違いなく優勝争いするでしょう。うちもやりますよ。チームに呼んでくれた監督に、今年もいい思いをさせてあげたいですね」。

 ◆正田 耕三(しょうだ・こうぞう)1962年1月2日、和歌山市生まれ。56歳。市和歌山商から新日鉄広畑に進み、84年ロス五輪で金メダル獲得。同年ドラフト2位で広島入団。87年(3割3分3厘)、88年(3割4分)首位打者、89年最終戦でプロ野球タイ記録の1試合6盗塁を決め盗塁王(33個)。98年に引退後、99年まで広島、00~04年近鉄、05~07年阪神で守備走塁や打撃コーチを歴任。解説者を経て09年SK、10~11年オリックス、15~16年ハンファ、17年からKIAでコーチ。通算1565試合、打率2割8分7厘(1546安打)、44本塁打、391打点、146盗塁。ベストナイン2度(88、89年)、ゴールデン・グラブ5度(87~91年)受賞。

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