【中日】日テレ・上重アナ、松坂勝利に「ありがとう」…独占手記

スポーツ報知
98年8月、アジアAAA選手権で横浜・松坂(左端)と同チームとなったPL学園・上重(右端。左2人目から関大一・久保、鹿児島実・杉内)

◆中日3―1DeNA(30日・ナゴヤドーム)

 PL学園のエースとして1998年夏の甲子園で横浜・松坂と高校野球史に残る死闘を繰り広げた日本テレビの上重聡アナウンサー(37)が、“戦友”の勝利を祝って、スポーツ報知に独占手記を寄せた。

 大輔、復活の勝利おめでとう。友人としてではなく、いちファン、いち松坂世代の人間として、むしろ「ありがとう」という気持ちです。「松坂」「マツ」「大輔」と呼び方は変わりましたが、私の心の中には常に大輔が存在していました。

 高3のセンバツは準決勝で横浜に2―3の逆転負け。翌日からPL学園の目標は「打倒松坂」になりました。いくら投げ込んでも「今、松坂はどんな練習をしているんだろうか」。いくら走っても「松坂はもっと走っているはずだ」。そんなことばかり考えていました。

 夏の甲子園。準々決勝で大輔は先発。私は同点の7回から登板しました。「松坂と2人でスコアボードにゼロを並べている」。ウキウキしながらマウンドに向かい、大輔が触った球を拾って握る。この時間がずっと続けばいいのにと思いました。試合は延長17回に私が2点を勝ち越されて終わりました。よく「上重投手、笑顔で整列していたね」と言われますが、充実感にあふれ、不思議と悔しいという感情はゼロでした。

 プロでも大輔と投げ合いたい気持ちでいたのですが、立大3年のときに野球を辞める決断をしました。直後に食事の席で大輔に打ち明けたら「俺だって投げ合いたかった」と怒られました。でも、けがや精神的に苦しんでいたことを話すと「分かった。でも4年の秋まで野球を粗末にせずやり切ってくれ。ならば俺も納得する」と約束してくれました。

 寮に帰り、飾っていたTシャツを眺めました。センバツの後、雑誌に「松坂とTシャツを交換したい」と書いてもらったことをきっかけに、夏の開会式で大輔からプレゼントされたものです。見るたびに大輔の優しさや、野球へのひたむきな思いを感じて「もっと頑張んなきゃ」と心が奮い立ちます。今でも、西武、Rソックスのユニホームと一緒に部屋に飾っています。

 ソフトバンク時代は右肩痛に悩まされていましたが、昨年から「改善の兆しがある」と、うれしそうに話していました。「怪物のままで終わってくれ」と思っていた時期もありましたが、もう一度輝く大輔が見たかった。泥まみれでボロボロになっても投げる大輔を、松坂世代の我々は見守る義務があると思っています。(日本テレビアナウンサー)

 ◆上重 聡(かみしげ・さとし)1980年5月2日、大阪・八尾市生まれ。37歳。PL学園では3年生時に春夏甲子園出場。立大に進学し2年時に東大戦で完全試合を達成。2003年に日本テレビ入社。現在は情報番組「シューイチ」(日曜午前7時30分)などに出演中。181センチ、67キロ。

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