永遠の「ヤングマン」西城秀樹さん逝く…2度の脳梗塞から復帰も63歳力尽く
「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」などのヒット曲で知られる歌手の西城秀樹(さいじょう・ひでき、本名・木本龍雄=きもと・たつお)さんが16日午後11時53分、急性心不全のため横浜市内の病院で死去した。63歳だった。広島県出身。2003年と11年に脳梗塞で入院し、右半身麻痺(まひ)のリハビリをしながら音楽活動を続けていた。4月25日夜に横浜市内の自宅で倒れ、3週間、病床で闘ったが、最後まで意識は戻らなかった。
郷ひろみ(62)、野口五郎(62)とともに「新御三家」と呼ばれ、情熱的な歌声で国民的ヒット曲を連発した大スターが、63歳の若さで天国へ旅立った。
関係者によると、西城さんが倒れたのは4月25日の夜だった。昼間は病院で3時間ほどリハビリを行って帰宅。家族とだんらん中に、突然倒れた。すぐに横浜市内の病院に救急搬送されたが、病院に着いた時にはすでに心肺停止状態だったという。
「死」を覚悟する状況。しかし、懸命な治療のかいもあり、約40分後、奇跡的に西城さんの心臓は動き出した。一命をとりとめたのだ。
その後3週間、一度も意識が戻ることはなかったが、担当医師が「ここまで頑張れたのは、秀樹さんの心臓の強さがあったから」と驚く生命力で心臓は鼓動を続けた。妻・美紀さんら家族は毎日、病院に訪れ、西城さんが目を覚ますのを祈り続けた。亡くなった16日夜は面会時間外だったこともあり、家族が最期をみとることはできなかったが、眠るように静かに亡くなったという。
華々しいスター街道を歩み続けた西城さんは、近年は病気と闘い続けた。2003年6月、ディナーショーで訪れた韓国で脳梗塞を発症。言語障害や軽いうつ病の後遺症が残ったが、1日3~4箱吸っていたたばこを断ち、約5年間かけて回復した。しかし、11年12月に再発。患部が運動神経に近かったため、右半身に麻痺が残り、退院後は過酷なリハビリを続けることになった。
リハビリはほぼ2日に1度のペース。筋トレなどの神経再生トレーニングは時に過酷で、あまりの激痛で涙を流すことも少なくなかったという。
それでも、痛み以上に歌手復帰への意志は強く、リハビリに耐えながら、音楽活動を再開。15年4月13日の60歳の誕生日に還暦記念アルバムを発売し、「ヒデキ、還暦!」と題したライブを開催。翌16年10月にはデビュー45周年の記念コンサートを行うなど、年間70ステージをこなすほどに。同じ境遇の人たちの励みになればという思いで、テレビ番組でリハビリ姿を公開するなど、思うように動かない自身の姿をさらけだした。
最後のステージは4月14日に栃木・足利市で行われた同窓会コンサートとなった。スタッフによると元気な様子で、共演者からケーキで誕生日を祝われると満面の笑みを見せていた。ステージに上がる直前までリハビリも兼ね廊下を歩いたり、指を動かすなど、やる気に満ちあふれていたという。
懸命な“闘病”には、21年に迎える予定だった50周年をファンとともに祝うという大きな目標があった。50周年で激しいアクションを必要とする「傷だらけのローラ」をフルコーラスで歌えるよう、今年1年はあまり仕事を入れずに、リハビリに専念すると周囲に話していたが、その夢はかなわなかった。
◆西城 秀樹(さいじょう・ひでき)本名・木本龍雄。1955年4月13日、広島市生まれ。72年3月、「恋する季節」で歌手デビュー。74年「傷だらけのローラ」で日本レコード大賞歌唱賞。79年「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」で日本歌謡大賞を受賞。「NHK紅白歌合戦」は、74年から11年連続出場を含め18回出場。俳優として、74年にドラマ「寺内貫太郎一家」にレギュラー出演し、映画「愛と誠」で初主演。家族は美紀夫人と2男1女。
◆葬儀日程
▼通夜 25日午後6時
▼葬儀・告別式 26日午前11時、いずれも東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で
▼喪主 妻・木本美紀さん