西城秀樹さん、広島から家出同然で上京…歌にドラマ“新アイドル”作った

スポーツ報知
西城秀樹がコンサート公演のため訪れた中国・広州の広州駅前で中国のファンや報道陣に取り囲まれる(87年3月撮影)

 180センチを超す長身で、長い髪を振り乱しながら、情熱的なハスキーな歌声で「ローラ!」と絶唱する姿に、世の多くの女性は虜(とりこ)となった。ライブでは、感激のあまり失神するファンもいた。ロックを基調としたヒデキの歌唱スタイルの原点は、幼少時代に遡る。

 子供の頃に兄と組んだバンドでドラムを担当し、音楽に親しんだ。中学生で本格的にバンドを結成。西城さんは「(米国の歌手の)ジャニス・ジョップリンの影響があった。ベンチャーズ、ビートルズなど洋楽が大好きだった」と語っている。高校時代にスカウトされると、両親の猛反対を押し切り、家出同然に広島から上京した。

 73年に「情熱の嵐」がヒットして人気に火が付いた。日本の音楽業界は、グループサウンズ、フォークとブームが続いた時期。西城さんのワイルド&セクシーなスタイルは新たな男性アイドル像を作り出した。

 デビュー時から約5年間、西城さんを支えたマネジャーによると、素顔は子どものように無邪気で、片頭痛で入院中にパンと牛乳が欲しくなり、夜中に脱走したこともあった。ユッケが大の好物で、話し声がガラガラな時でも「生肉を食べると声が出る」と、ステージで美声を響かせていた。

 74年、「やめろと言われても」のフレーズで有名な「激しい恋」がヒットし、TBS系「火曜歌謡ビッグマッチ」で郷ひろみ、野口五郎の「新御三家」が初共演。その年、紅白歌合戦に初出場を果たし「新御三家」そろい踏みを果たした。

 ドラマ「寺内貫太郎一家」や映画「愛と誠」で俳優として活躍したり、バラエティー番組に多く出演する形は現在のアイドルに受け継がれている。

 人並み外れた運動神経の持ち主としても知られ、テレビの芸能人水泳大会、運動会などに出場しては大活躍した。だが、この体力への過信が順調だった人生を変えた。2003年の脳梗塞は、サウナでの無理な減量が裏目に出て引き起こされたものだった。

 芸能界のパイオニアでもあった。74年、大阪球場で、ソロ歌手として初めて「野球場」でのライブを開催。75年には日本人ソロ歌手として史上初の日本武道館コンサートを行った。今では主流となった客席でペンライトを使う演出は、74年に西城さんが導入して広まった。自身最大のヒットとなったヴィレッジ・ピープルのカバー曲「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」をはじめ、洋楽のカバーを積極的に取り入れた。

 80年代以降は、アジアに進出。88年のソウル五輪前夜祭で、当時日本の歌が禁止されていた公の場で「傷だらけのローラ」を披露。98年は日本人として初めて中国・万里の長城の前で歌唱するなど、“日本のアイドル”にとどまらない活躍を見せた。

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