【平尾昌晃・生涯青春】(25)「紅白」「レコ大」には出演してほしい

2017年3月11日14時0分  スポーツ報知
  • 平尾昌晃

 日本の音楽界で年末の紅白歌合戦とレコード大賞は重要なイベントだ。2006年から紅白で「蛍の光」の指揮をしているが、現役歌手として初出場した時(1960年)には親や兄弟が喜んでくれてうれしかった。3年連続で出場した後、78年に「カナダからの手紙」で出演した時は雰囲気が違っていた。カラーテレビの登場でダンスやポップスの歌手が目立ち、歌を聴かせるというよりもショーの意味合いが強くなりよりテレビ的になっていた。

 紅白の“売り”は演歌や歌謡曲、ポップスといろんな歌の競演だ。日本人はどんな海外の曲も自分たちの手の内に入れる才能があるから素晴らしい。海外でも放送している、歌手にとって紅白のステージは総決算、当然ながら真剣度も違ってくるのだ。

 レコ大は昭和42年に「霧の摩周湖」で作曲賞を頂き、昭和48年に五木君の「夜空」で初めて大賞を受賞した。大賞は特別なものだ! (山口)洋子ちゃんの軽井沢の別荘に誘われ、夜なにげなく空を眺めたら満天の星。「こんな奇麗な夜空を見ていたらメロディーが浮かんできたよ」「夜空いいわね」。何日かして詞が完成し「五木の勝負曲ができた」と、みんな喜んだ。この年は、3月「霧の出船」、7月「ふるさと」、10月「夜空」と3曲のヒットが続き、紅白では「ふるさと」を歌唱した。

 レコ大発表当日、会場で聞いた司会者の「夜空です」のコールは今でも耳に残っている。感無量だ。それまで「作曲家・平尾昌晃」とは言われたくなかったが古賀政男、吉田正、服部良一ら大先輩がいる中で受賞したことで“作曲家”の冠を受け入れることができた。自分にとっては大きな出来事だった。昨今、レコ大や紅白を辞退する歌手も多いが、いい曲があれば出ればいい。歌手も作り手も自信になるし、音楽界の活性化のためにも出演してほしいものだ。

 25話の連載を読んでいただきありがとうございました。皆さまにご心配をおかけしましたが、主治医より「栄養をつけて頑張ってください」と励まされました。最近は、小豆島中学校の校歌や今年開校のたまプラーザ看護学校の校歌なども作り、僕のジュウバコから29日に発売されるHANDSIGNの「僕が君の耳になる」、浅草の三味線デュオ・葵と楓の成長も楽しみです。そして4月19日には永井みゆきの「蛇の目小紋の女」(テイチクレコード)が発売されます。これからも生涯現役で頑張ってまいりますので皆さんどうぞよろしくお願いします。=終わり=(構成 特別編集委員・国分 敦)

 【雲の上のアイマスク】なかにし礼

 誰に紹介されたのか、どういう流れでそうなったのかは全く思い出せないのだが、私は大スター平尾昌晃の友人たちの中に交じって酒を飲んでいた。昭和39(1964)年の夏の頃だと思う。平尾さんは日劇ウエスタンカーニバルのトップスターであったから、その仲間たちは楽しさいっぱいに騒いでいる。私はまだシャンソンの訳詞をやって大学に通っている苦学生だったから、平尾さんや彼を囲んで歌い騒ぐ若者たち(奇麗な女の子も数人いた)が眩(まぶ)しく見えて仕方がない。際限もない騒ぎは東京を出て、たしか茅ケ崎だったと思うが、平尾さんの家に行ってもなおつづいた。

 夜がすっかり明けてから、さて寝るかということになった。

 みんな酔っぱらっているし夏だったから、ベッドやらソファの上で雑魚寝だ。しかし明るくて寝られたもんでない。私はハンカチで目を覆ってなんとか眠った。

 午後になって、みんながぞろぞろ起き出してきた。平尾さんも起きてきた。

 「やあ、みんなよく眠れた?」

 よく寝た表情で笑う。

 見ると、平尾さんの片目は今で言うアイマスクなるものに隠れていた。

 こんな便利なものがあるのか。スターはやはり違うな。私の目には平尾さんがまさに雲の上の人のように見えた。

 が、人生って摩訶(まか)不思議なものだ。3年後には、その雲の上の人と一緒に『愛情』(歌・園まり)という歌を私が書いているのだから。以来、『京のにわか雨』『グッド・バイ・マイ・ラブ』『櫻』など平尾さんとのヒット曲は多い。

 なのに、平尾さんに会うたび、彼を雲の上の人として見る癖はどうにも直らない。

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平尾昌晃・生涯青春
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