【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈3〉新日本道場は松下村塾だった】

スポーツ報知
ファンにあいさつする武藤敬司

 武藤敬司は、1985年3月からスタートした「第1回ヤングライオン杯」に出場した。

 「ヤングライオン杯」は長州力らの大量離脱で苦境に立った新日本プロレスは若手レスラーの底上げと活性化を目的に2シリーズに渡った総当たりのリーグ戦。当時の前座レスラー9人が出場し若手ナンバーワンを争った。

 開幕を前に武藤は、突如、髪の毛を丸めた。それもすべての毛をツルツルの状態にまで剃り上げた。

 「オレの中で常に目立とう精神があったからね。これは、レスラーにとって一番重要な要素なんですよ。この時も誰よりも目立ってやろうって思ってね、突発的に頭を剃ったんですよ。柔道の時からそういう頭で試合やっていたから抵抗は全然、なかった」

 当時の出場選手の中で頭を剃り上げた武藤の姿はひときわ輝いていた。しかし、これに激怒したベテランレスラーがいた。新日本の旗揚げから団体を支えてきた星野勘太郎だった。

 「星野さんに怒られてね。どうやらオレのことを二枚目だと思っていたみたいで、“お前みたいなヤツはそういうことをしない方がいい”って言ってくださったんだよ」

 星野を怒らせた頭剃り上げ事件。ただ、武藤にとっては、とにかく誰よりも目立ちたいという志の発露だった。

 「オレの中には、持って生まれた目立とう精神があるんですよ。これは、自覚してないけど、目立ちたいからプロレスラーになったと思う。柔道をやっていたから、競技としてのプロレスにはあんまり夢中にならなかった」

 プロレスというジャンルでアントニオ猪木からUWFの前田日明らが継承してきた強さだけを追求する考えには、当時から疑問を持っていた。

 「UWFみたいな思想は、猪木さんを筆頭にアマチュアイズムがない人が発想すると思う。坂口(征二)さんとか長州さんとかマサ(斎藤)さんとか五輪レベルまで極めた人たちは絶対にああいう発想にならない。例えて言うなら、100メートルを何秒走らないといけないというジャンルのところいったらすげぇ大変なとこ知っているから。柔道なんてオレの専門学校でも120人ぐらいで練習してた。オレなんか柔道一生懸命やったけどすっげぇ強いヤツがいたし、上には上がいたからね。だから、UWFみたいな考えはアマチュアイズムのない人が作り上げたもので、しかも新日本の道場というすごい狭い世界で作り上げた。新日本の道場は例えて言えば、明治維新に向けた山口県の塾、松下村塾みたいなものですよ。当時からそういう疑問はあった。そこだけは、すげぇ持っていた。橋本(真也)なんかとは、そのころから思想が違っていたかもしれないね」

 松下村塾は幕末に長州藩で吉田松陰が主宰した私塾。松陰はわずか50平方メートルの小舎で志ある者を身分の差など関係なく教えた。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋ら倒幕、明治維新と新しい時代を切り開いた多士済々の人材を輩出した。武藤は、このある意味、閉ざされた中で思想を教えた私塾を新日本道場とダブらせた。

 一方で新日本に入門して感じた疑問。それは、武藤の中で早くも理想のプロレス像が確固となっていた証しだろう。当時の新日本は、すべてが「猪木イズム」だった。そんな中で違和感を覚え、徹底的に「目立とう精神」を貫き実践したからこそ、武藤の存在は際立っていたのだ。

 ヤングライオン杯は予選リーグで敗退した。決勝戦は山田恵一と小杉俊二が対戦し小杉が優勝した。結果は出なかったが武藤を幹部は抜てきする。9月のシリーズ「チャレンジスピリット85」の9月6日、愛知・碧南市臨海体育館で初のテレビマッチが組まれたのだ。当時は毎週金曜夜8時から生中継。デビューから1年満たない選手のテレビマッチは異例だった。

 「(ドン)荒川さんと組んで、トニー・セントクレア、上田馬之助組と対戦してね。ただ、試合が早く終わって、荒川さんにめちゃ怒られたよ」

 テレビ初登場は、ムーンサルトプレスをブラウン管初披露した試合となった。セントクレアに決めた月面水爆。全国のお茶の間に新鮮な驚きを与えた。さらなる抜てきは続く。11月から初の米国武者修行が決定したのだ。

 「坂口さんから言われて、めっちゃくちゃ嬉しかったよ」

 「バーニングスピリット イン オータム」最終戦となる10月31日の東京体育館での試合を最後に初の米国へ武藤は向かった。抜てきの背景にあったのは、ムーンサルトプレスだった。(敬称略)

 ◆武藤 敬司(むとう・けいじ)1962年12月23日、山梨県富士吉田市生まれ。55歳。1984年4月に新日本プロレスに入門。同年10月にデビュー。以後、IWGPヘビー級、IWGPタッグ、三冠ヘビー級王座など数々のタイトルを獲得。89年4月に米国のWCWで化身であるグレート・ムタが誕生。2002年1月に新日本を退団し全日本プロレスへ移籍。同年10月に社長に就任。13年5月に全日本を退社し同年7月にWRESTLE―1を旗揚げし現在に至る。身長188センチ、体重110キロ。

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