【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈8〉長州力のUターン、なぜか猪木側に入った世代闘争】 

スポーツ報知
長州力

 1987年。24歳の武藤敬司は、新日本プロレスに生まれた新しい波にのみこまれた。

 きっかけは春に新日本プロレスへ復帰した長州力だった。3年前に大量離脱し全日本プロレスに参戦した革命戦士は、設立したジャパンプロレスを離脱しマサ斎藤、小林邦昭らと共にUターン復帰した。

 長州は、新たな展開を打ち出した。IWGPシリーズ最終戦の6月12日。両国国技館のリング上で世代闘争をぶち上げた。新日本、長州軍、UWFと選手が飽和状態でリング上のテーマがぼやけていた状況に、猪木、斎藤、藤原喜明ら「ナウリーダー」と藤波辰巳、長州、前田日明らの「ニューリーダー」が激突する世代闘争を掲げたのだ。

 この抗争のはざまで武藤の存在は、宙に浮いた。その象徴が8月19、20日に両国国技館2連戦となった「サマーナイト・フィーバーイン国技館」だった。プロレス界初の両国2連戦の初日は、ナウリーダーvsニューリーダーの5対5イリミネーションマッチ。2日目は、猪木、武藤組vs藤波、長州のタッグマッチがメインだった。チケットは2日間ともに超満員札止めだったが、武藤にとっては苦しみの2連戦だった。世代闘争にもかかわらず、なぜか、24歳の武藤が猪木らのナウリーダーに組み込まれたからだ。

 「オレなんかあの時、ニューリーダーよりもっとニューリーダーだったんだよ。だけど、オレだけ年寄りに入った。何にでも順応していたから、ある意味、本当に便利屋だったんだと思う」

 マッチメイクに拒否することはできなかった。

 「あのころは、意志なんてなかったからね。当時は業界全体が封建的だったしね。そういう意味では米国の方がフリーかもしれない」

 初日は、最後にナウリーダー組は、武藤一人だけが残ってニューリーダー組で残った長州、藤波と1対2の状況で対戦。最後は藤波の原爆固めに敗れ去った。続く2日目は、さらなる苦しみが襲った。

 「2日目は、猪木さんのパートナーは、当初、Xって発表されていて、本当はマサさんが組むはずだった。ところが、マサさんがパスポートなくして日本に入ってこれなくなって、急きょ、“お前行けって言われて”ね」

 世代闘争のテーマとかけ離れた武藤の存在に会場はブーイングに包まれた。

 「客席から帰れコールだよ。そんな中で試合するのは精神的につらかったよ。まぁ、そういう経験もしているから、その後の武藤敬司が構築されていくんだけど。そのころは欲も大それた夢もなかったから、ただつらかったね」

 傷を負ったのは心だけではなかった。デビューから3年。ムーンサルトプレスを舞い続けてきた代償から右膝に痛みを覚え始めていた。

 「秋ぐらいから右膝が引っかかるようになった。暮れになると完全に膝の調子が悪くなった」

 膝のケガで12月27日、両国国技館で行われた「イヤーエンド・イン国技館」は欠場。ビートたけし率いるTPGの登場で観客が大暴動を起こす大会に武藤は不在だった。

 「膝が痛いからあの大会は休んだ。それで1月に半月板除去の手術をやった。あれが初めての手術だった。今は半月板取らないらしいね。当時はスポーツ整形みたいなのはなくて、除去はするけど、リハビリの施設なんかがなかった」

 ついにメスを入れた右膝。長い長いケガとの戦いの始まりだった。(敬称略)

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