【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈14〉WCWとの別れ、坂口征二に相談したWWF行き】 

スポーツ報知
武藤敬司

 1990年。26歳の武藤敬司は、新日本プロレスを離脱し新たに旗揚げを予定している「SWS」へ移籍することを決断した。

 当時の日本マット界は、前田日明が率いる新生UWFが一大ブーム。一方で大仁田厚が旗揚げした「FMW」がデスマッチ路線を打ち出した。新興勢力が台頭する中、新日本と全日本の老舗団体は、停滞の時期だった。全日本は、天龍源一郎の「天龍革命」がピークを迎え、新日本プロレスは、アントニオ猪木が参議院議員に当選し第一線を退き、坂口征二が社長に就任しリング上では長州力がマッチメイクする新体制がスタートしていた。

 こうした時代のうねりの中、大手眼鏡販売チェーンを展開する「メガネスーパー」の田中八郎社長は水面下で元国際プロレスの若松市政を参謀に迎え新団体設立へ動いていた。当時は、もちろん、武藤へのスカウトは極秘プロジェクトで移籍も武藤の胸の内と若松への口約束での決断だった。一方でムーンサルトプレスを引っ提げグレート・ムタとして全米でブレイクしていたWCWから離れる時が来る。

 「マネージャーのゲーリー・ハートから“お前は絶対にベビーフェイスに行かない方がいい。ベビーフェイスになったらお前は日本人だからトップじゃなくなるからな”ってずっと言われていた。それは、オレも理解していたんだ。そんな中、ハートがWCWをクビになって、オレが独りぼっちになっちまったんだよ。そうしたら、案の定、WCWが“お前は今後、ベビーフェイスだ”って言われてね。だから“じゃぁ、オレは日本に帰ります”って言って、WCWを1月か2月にやめたんだよ」

 いきなりの離脱にWCWの幹部は激怒した。

 「辞める時にすげぇ怒られたよ。今、WWEの幹部にいるジム・ロスにすげぇ文句言われたことを覚えているよ。契約も残っているからね。だけど、契約する時に日本に帰る時は、この契約は別にしてくれって言っていてそれは認められたから契約上の問題はなかった。辞める理由として、幹部とミーティングした時に“ホームシックで帰りたい”って言ったんだよ。そしたら、向こうも“ホームシックなら、しょうがない”って納得してくれて、それでWCWを離れることになった」

 90年2月10日、新日本は東京ドームでリック・フレアーと日本初見参となるムタのシングルマッチをメインに据えるカードを発表していた。ところが直前にWCWはフレアーの派遣の中止を通告。開催の危機に陥った新日本の坂口社長は、全日本のジャイアント馬場に相談。馬場はジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、タイガーマスクの4選手の参戦を承諾し、長年に渡って興行戦争を繰り広げていた両団体の融合は当時「プロレス界のベルリンの壁が崩れた」と評され、2・10ドームは空前の活況を呈した。

 一方の武藤はこのドーム大会は欠場。SWSへの移籍、WCWとの別れ…と大きな岐路に立っていたが、心は揺れ動いていた。WCWを離れる時、相談したのは、新弟子時代から公私共に慕ってきた新日本の社長だった坂口征二だったのだ。

 「坂口さんに“WWF(現WWE)に行きたいんですけど”って相談したんだよ。そしたら坂口さんが“今度、WWFと新日本と全日本でドームでやるから、その時、ビンス・マクマホン・ジュニアが来るから紹介してやるよ”って言われてね。それで日本に帰ったんだよ」

 坂口が明かしたWWFと新日本、全日本の合同興行は、90年4月13日に東京ドームで開催された「日米レスリングサミット」だった。メインイベントは、ハルク・ホーガンとスタン・ハンセンの一騎打ち。ジャイアント馬場とアンドレ・ザ・ジャイアントの初タッグ結成や天龍とランディー・サベージのシングル戦は、歴史に残る名勝負となった。

 武藤から相談を受けた坂口は、この興行でWWFのビンス・マクマホン・ジュニア代表を紹介することを武藤へ約束していたのだ。しかし、胸の内ではSWSへの移籍を決断していた。WCWを離れた武藤は、ひっそりと日本に帰国した。3月。坂口に自身の決意を伝えた。(敬称略)

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