【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈15〉坂口に伝えたSWS移籍…急転直下の新日本残留】

スポーツ報知
坂口征二

 1990年3月23日。27歳の武藤敬司は、新日本プロレスからの離脱とSWSへの移籍を社長の坂口征二に伝えた。

 「その日は、坂口さんの引退興行が後楽園ホールであった日でね。坂口さんの自宅に花束を持って“引退ご苦労さまです”って言って、そのまま“新日本辞めます”って言ったんだよ」

 引退のねぎらいからいきなり、離脱を告げられた坂口は、その場で武藤を説得すると行動に出た。

 「オレの前で坂口さんがメガネスーパーの田中八郎社長に電話してね。“武藤は行かないらしいですよ”って伝えて、それで結果、新日本に残ることになった。最終的に新日本を選んで、その足で後楽園に行ってリング上で凱旋帰国のあいさつをしたんだよ」

 坂口との対面で急転直下、新日本残留が決まった。今、当時の心境を告白する。

 「日本で田中八郎社長の小田原の自宅に行って、直接、会ってもいたんだよ。すげぇ、デカイ家でさ。田中社長は、その時、“東京ドームで試合をやって5万人呼ぶ”って言っていた。実際に、その後、ハルク・ホーガンを呼んでドームで興行やったね。タクシー代も100万もらって、当時はうれしくて舞い上がってさ。一度は金になびいたんだけどね。だから、最終的に新日本を選んだオレは、メガネスーパーからしてみれば裏切り者だよな」

 揺れ動いた胸中を赤裸々に振り返った。

 「それと、天龍(源一郎)さんが来るって聞いていたけど、あの天龍さんが全日本から動くなんて絶対思わなかった。そういうことを言っていること自体があまりにも夢物語みたいなこと言っているって思って逆に信じられなかった。最大の原因は、最終的にあの当時のオレは自信がなかったんだよ。自分で団体を動かせる自信がなかったんだよね。それがSWSへ行かなかった最大の理由だよ」

 SWSの引き抜きの動きは4月下旬に一気に表面化する。天龍が全日本を退団。他の選手も時間差を置いて移籍してきた。結果、全日本と新日本から選手を大量に引き抜き旗揚げしたが、選手間の激しいあつれきを繰り返し、旗揚げから2年も持たず92年6月に崩壊した。武藤がエースとして参加していれば、歴史は変わったのだろうか。

 「いや、オレが行っていても歴史は変わってないでしょう。あれだけ、風土が違う選手を集めたら誰がやってもうまくいかないと思うよ」

 若松市政のスカウトを受けてから新日本を残留を決断するまでの4か月。当時はすべて水面下での動きで表ざたにはなっていなかった。その間、WCWも離れ、まさに激動の日々だった。

 「あの時は、毎日がてんやわんやで大変だったよね(笑い)」

 揺れ動いた日々をくぐり抜け新日本参戦を決断した武藤。それは、新たな衝撃のスタートだった。90年4月27日、東京ベイNKホール。グレードアップしたムーンサルトプレスを引っ提げた凱旋帰国で鮮烈な姿を刻み込んだ。(敬称略)

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