【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈33〉小橋建太と競演した人生最高の月面水爆】

スポーツ報知
ムーンサルトプレスを舞う武藤

 2011年8月27日、日本武道館。武藤敬司は、「人生最高のムーンサルトプレス」を舞った。

 大会は「ALL TOGETHER東日本大震災復興支援チャリティープロレス」。東京スポーツ新聞社が東日本大震災への復興支援として新日本、全日本、ノアのメジャー3団体に合同興行を呼びかけ実現したイベントだった。武藤は、小橋建太と夢の初タッグを結成。新日本の飯塚高史、矢野通と対戦した。

 共に月面水爆を必殺技にもつ武藤と小橋。交わることがなかった2人の初タッグに超満員の武道館は期待で膨れあがった。試合は、武藤が矢野へ、続けて小橋が飯塚にムーンサルトプレスを決める月面水爆リレーでフィニッシュした。この時に矢野に決めた月面水爆が「人生最高のムーンサルトプレスだよ」と武藤は断言した。

 「プロレスの条件は、どれだけ多くの人に影響を残したかっていうことが重要。そう考えると、やっぱり、ALL TOGETHERになる。小橋と初めてタッグを組んでね。小橋もムーンサルトプレスを多用していているわけだから、比較対象になる。そこで2人でムーンサルトをやったということが価値があったよね。あの東日本大震災への被災者の皆様への思いを込めて舞ったしね。それは、きっとやった時点で希望と夢を与えることができたと思うんですよ。やっぱり、あの時のムーンサルトプレスは、忘れられませんっていうお客様の意見が多いもんね。そういう意味でALL TOGETHERが最高だった」

 この試合は、2011年の東京スポーツ制定のプロレス大賞で年間最高試合賞を獲得し、大きな評価を得た。一方、最高の月面水爆にたどり着くまでには、苦難の連続だった。前年の2010年4月には、4度目の膝の手術を行った。ケガは「変形性膝関節症」で「右膝関節内遊離体」といういわゆる関節ネズミと呼ばれる軟骨を約20個も取り除く大手術でプロレス人生で初めてとなる半年もの長期欠場を強いられた。

 「ネズミのでかいのがいっぱいあって、それを取り除く手術だった。復帰したけど、それからは、ほぼビッグショーしか出なくなった。ただ、オレの比重が大きかったから、出なくなると興行成績が悪くなってね」

 肉体だけではなく精神的にもダメージを受けた。2011年5月に控室でレスラー同士による暴行事件が発生。社長を引責辞任した。

 「本当は、その手術の後に人工関節を入れようと思った。引退こそ明言しないけど、そろそろかなって頭をよぎったこともあったからね。それに何よりも痛みが苦痛でもあったんだよ。ただ、その時に全日本が揺れて、それが許される状況じゃなくなった」

 13年5月いっぱいで全日本を退団。7月に現在のWRESTLE―1を設立した。

 「WRESTLE―1を旗揚げして、オレが先頭を切らないといけなかった。だけど、膝の痛みが、どうにもならなかった。自分が先頭切って歩ける時はいいけど、全日本にいた後半からは年齢と共にフルに試合をやれなくなった。そうなると、どんどん売り物がなくなるわけで、プロレスをやるのが商品だから、それは歯がゆい部分がありますよ」

 葛藤を抱えながら、たどり着いた55歳。人工関節の手術を決断した。それは、プロレス人生を貫き続ける決意の表れだった。しかし、医師からは、復帰後はムーンサルトプレスの封印を宣告された。そして今年3月14日、後楽園ホールで「さよならムーンサルトプレス」と告げた月面水爆。今の思いを武藤が明かした。(敬称略)

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