【長州力インタビュー〈3〉】革命戦士が感じた全日本と新日本のスタイルの違いとは

スポーツ報知
前回、1月のプロデュース興行での長州(中央。左は伊橋。右は飯伏)

 プロレスラー長州力(66)へのインタビュー3日目は、かつて参戦していた全日本プロレスへの思いを明かした。

 長州は、7月10日に後楽園ホールでプロデュース興行第2弾「POWER HALL2018~Battle of another dimension~」で全日本の秋山準(48)と6人タッグマッチで初対決する。秋山は専修大学レスリング部の後輩で1992年に卒業し全日本へ入団した。秋山の在学中には、たびたび専大レスリング部の練習にも長州は、参加していた。

 「当時の印象はない。年が離れすぎている。馳(浩)も間に入っているし。この業界でずっとやっていたら、大学の先輩後輩っていうのはあんまり意識していないし。反対にこういうカードができるようになったら、そういうものも言われるんだろうな」

 馳浩、中西学と大学の後輩は、自身が新日本プロレスへスカウトした。しかし、秋山は違ったという。

 「彼に声を掛けたのかも分からない。まったくボクには分からない。中西も馳も新日本の中に入ってやっていたからなんか入りずらかったのか、反対に自分で違う方でやろうと思っていたのか。それは分かりかねますよ。まぁ、どっちに入ろうが同じ業界に入って頑張っているわけだから」

 デビュー後の秋山の印象もおぼろげだった。

 「わかんない。見てないんじゃない。どこで目に入っていたか、いないか分からない。いつの間にかリングに上がっていたなって、そんな感じですよ」

 一部では秋山のデビュー後、その活躍を見て、馳に「なぜ、取らなかったのか」と言ったと伝えられている。

 「それは馳に聞いた方が早いんじゃない。そういうのはあんまり…」

 90年代。長州は新日本のエース、そして現場監督としてリング内外を仕切り、東京ドーム興行を中心に活況をもたらした。一方で全日本は、三沢光晴、川田利明、小橋建太、田上明の「四天王プロレス」がファンから絶大な支持を得ていた。当時、四天王プロレスをどう見ていたのだろうか。

 「それは馬場さんの時代から一緒ですよ。馬場さん、アントニオ猪木さんっていう比べられている時代から、まだ自分たちの時代は、そういうのがありましたから。それは、ファンがどっちをこう応援っていうね。ファンはみんなプロレス好きなんでしょうけど、それでもその中で頑張っている全日本、頑張っている新日本ってちょと分かれている。何らその辺は別に考えたことも感じたこともないですね」

 馬場の全日と猪木の新日。昭和プロレスの歴史は、ライバルがしのぎを削った争いの時代でもあった。90年代。新日本のトップに立った長州もその時代の延長線上で四天王プロレスを見ていた。

 「どっちを応援しようが基本的にはファンはプロレスが好きなわけですよ。その中でまたファンが、あぁ面白い選手だとかいい選手だと思ってその選手を応援してくれるわけだから、それはどこの団体であろうがあんまり気にしたことない。それだけのものが当時の2団体にあったわけだから」

 84年9月に新日本を離脱した長州。13人のレスラーとジャパンプロレスを設立し、85年1月から87年2月まで全日本へ参戦した。新日本からの大量離脱と最大のライバル、全日本への参戦はプロレス史に残る衝撃的な事件だった。

 「全日本に行けばやっぱりみんな大きいですよね。ちょっとそういう部分ですごくしんどい思いをした。みんな大きいですよね。その大きさが全日本の魅力でもあったし。だからある部分ではボクたちだって大きい方じゃないし。新日本では坂口(征二)さん、猪木さんと大きい選手もいましたけどやっぱり、ちょっとひょろっとしている部分で。全日本は全体的にみな大きいし。じゃぁ小さい選手も少なからずいたし、それは僕たちと同じぐらいだから。リングの中の重量感と言えば全日本が大きかったですよね」

 身長209センチの馬場は、レスラーの条件に規格外の大きさを掲げていた。ジャンボ鶴田、天龍源一郎の大型日本人レスラーとスタン・ハンセン、ブルーザ・ブロディら超ヘビー級の外国人との激突が全日の最大の魅力だった。その中で長州は自分の色を見いだしていた。

 「やりやすいっていうか、つかみやすいっていうのはありますよね。ポイントポイントでね。それは全日本の雰囲気のことなんだけど。こういう雰囲気でっていうのはありましたよね。それに自分たちが違う要素をリングの中で表現すればいいなって思って」

 鶴田、天龍との日本人対決はそれまでの全日本にない風景を描き出した。長州が新日本へUターン復帰した後、天龍が革命を起こし鶴田と激突。その流れで三沢らの四天王プロレスへとつながっていった。長州が遺した爪痕が秋山にもつながっていると思われる。

 「オレはそんなもん何も残してないって。オレが言うんだから。すぐプロレスが変わりはしないですよ」

 苦笑しながら、その見方を一度は否定した。

 「どうなんだろうな。でも今まで全日本はまとまった団体っていうイメージがありましたよね。それで、ボクが行ってまた出た時に元に戻らないで源ちゃんなんかがまた違ったような方向性を作って、全日本が活性してどんどんどん行ったんじゃない」

 新日本と全日本。スタイルの違いはどこにあるのか。

 「一緒ですよ。基本的には一緒。だから、さっきも言った通りそんなに大きな体格をしているわけじゃないから。その中で試行錯誤模索しながら、こんな具合にやろうって考えてリングに上がってました」

 そして、新日本で現場監督をしていた時のポリシーを明かした。

 「(新日本で)ボクなんか、その時代、上の方で選手見てたけど、選びますよね。質というか、その時の流れの中でどういう選手がいいのかっていうのは考えますよね。マッチメイクなんかでも、誰でもここに当てはめようっていう考えはボクにはなかったですね」

 それは猪木の影響なのか。

 「影響っていうか。自然とそういう具合になっていくんじゃないですかね。(山本)小鉄さんもしかりだった。日替わりランチみたいな誰でも当てればいいっていう、そういうものはなかったですよ。これは、全日本がそうだからって言っているんじゃなくて。誰でもいいんじゃないかっていうそういう組み合わせっていうのは、ちょっと」

 全日本を「日替わりランチ」と評しているワケではない。ただ、その言葉の一端に長州が考える「全日」と「新日」のスタイルの違いが垣間見えた。さらに突っ込んで聞いた。

 「なんだろうな。またみんな角が立つから。毎回、毎回インタビューでもしゃべりすぎてきたから。それはファンの方が選ぶっていうか。わかんないけど、プロレスファンっていうのは、今だったらこういうものを見てみようっていうのは、少なからずどこでやってもお客は来るわけだから」

 7・10後楽園。秋山が作り上げた今の全日本と長州のキャリアのぶつかり合いなのか。

 「そういう具合に火を付けない方がいいです。分からない。ボクにも。まだ、そういうものがわき出るのか出ないのか。そういうとこですね」。

(続く。取材・構成=福留 崇広)

格闘技

×