殿堂入り・松井秀喜が自分を褒めない「信念」とその理由…担当記者が見た

スポーツ報知
室内練習場で長嶋監督に1時間以上打撃指導を受けた松井(1997年2月12日)

 今年の野球殿堂入りが15日、都内の野球殿堂博物館で発表された。プレーヤー表彰で巨人、ヤンキースなどで日米通算507本塁打を放った松井秀喜氏(43)は史上最多336票を集め、野茂英雄氏の45歳4か月を抜き、史上最年少43歳7か月での選出となった。

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 「自分で自分を褒めたことはない」

 松井秀喜はそう言い切った。

 19歳で巨人のレギュラーになっても、50本塁打を打っても、ヤンキースでワールドシリーズMVPに輝いても、その「信念」を貫いたと言う。

 理由は、単純明快だった。

 「成長が止まるから」

 この思考こそが、日本を代表するスラッガーに上り詰めたゆえんである。

 「心技体」のうち、「最も大事」と位置づけたのは「心」だった。

 巨人時代は96年から飛躍的に数字が伸びた。95年オフに初めて打撃投手と契約し、苦手だったインハイ直球を克服する練習を繰り返した。

 「チーム内ではそれなりの数字を残していたが、『普通にいい選手』ではダメだ、と危機感が芽生えた。だから3年目のオフはものすごく練習した。意識を変えた。95年があったから、4年目以降から成績が伸びた。ボールの見え方、捉え方が、明らかに変わった」

 逆境に立たされた時こそ「心が進化する」と前向きに捉えた。

 「うまくいかなかったら、それを克服するために練習する。結局、どれだけ自分が努力したかに尽きる。その自信が強い心につながる」

 日本一の打者になることができたのは、一人の師匠がいたからだ。「松井秀喜は、長嶋茂雄が作った。長嶋監督がいなかったら、ここまでの打者にはなっていなかった。それは断言できる」

 ピュッ。会話は、バットが空を切る音だった。マンツーマンでの素振りは、入団2年目から始まった。

 「2人だけの真剣勝負。僕は全身全霊で振る。そうじゃないと、監督に一発で見抜かれた。『おまえ、ちゃんと振っているのか』と。手抜きはまるで許されない空間だった。平均すると約30分。たった30分なのに、いつも素振りを終えると汗だくだった」

 ファンあってのプロ野球―を体現した。「今日しか球場に来られない人がいる」と、どんな試合展開でも手を抜かなかった。子供のファンがいると、サインをした後、時間があれば同じ目線までしゃがんで頭をなでた。マスコミの取材には極力、応じた。海を渡ってからは毎試合後に会見を開いた。ファンへメッセージを届けることを「義務」と考えていた。02年オフのFA会見で「裏切り者と呼ばれるかもしれない」「命を懸けて戦う」と語ったのは、「すべてファンへ向けてのものだった」と振り返る。

 「野球に関しては、はっきり言って不器用」と自覚する男が、たゆまぬ努力でつかんだ候補1年目、史上最年少での野球殿堂入り。こんな日くらいは、自分で自分を褒めていい。(月刊ジャイアンツ編集長・鈴村 雄一郎=00~04年松井番=敬称略)

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