ファンの目がチームを変えた…磐田・名波監督とヤマハ・清宮監督が対談〈1〉

スポーツ報知
対談後、お互いの決意を記した色紙を持ち、並ぶ名波監督(右)と清宮監督

 ラグビーのトップリーグ・ヤマハ発動機の清宮克幸監督(50)とサッカーのJ1ジュビロ磐田・名波浩監督(45)が新春対談を行った。両クラブは磐田市内の同じ敷地にある大久保グラウンドで練習している。両指揮官による初の公式対談が『しずおか報知』で実現した。(構成・山田 豊)

 名波監督(以下名) 紙面で対談するのは初ですね。初対面は6、7年前の磐田市のイベント。それから時々食事にいきますね。

 清宮監督(以下清)まず6位おめでとうございます。磐田は川崎、鹿島、C大阪の上位への戦いが立派だったと思います。

 名 ありがとうございます。リーグ最少失点(30失点)が大きかった。敵地で浦和に4―2(6・18)、川崎で5―2(7・29)は衝撃が強かった。磐田が『アウトサイダー』から『ダークホース』に変わった瞬間でした。

 清 下位との試合を落とすこともありましたが、成長途上のチームにはどの競技でもある。と、一応援団として申し上げます(笑い)

 ―清宮監督は磐田にお詳しいですね?

 清 もちろん。いつも気にしています。

 ―ヤマハ発動機の今季を振り返ると?

 清 リーグ戦無敗でいきたかったが、叶わず。これから一発勝負の順位決定戦。準決勝・サントリー戦(6日)、決勝(13日)と勝ちたい。

 ―名波監督はヤマハ発動機のことは見ている?

 名 いつも上の順位でいいな、と思ってました。総合13位だった昨季は特に。

 清 トップ4に入った感覚が数年前にあり、この先5年は力は落ちないと確信しています。磐田もリーグ最少失点。他にはないレシピが発生しているはず。

 名 サッカーで難しいのは血(選手)の入れ替え。バランスを崩すこともあるし、金額に見合った動きでないこともある。たくさん映像は見てますが。

 清 一緒に練習しないと分からないですよね。しかし、移籍市場が成熟するとなかなかできない。

 名 今季は五郎丸歩選手が復帰。南アフリカ出身のファンデンヒーファー選手も元来FB。組み合わせは難しいですか?

 清 同時出場した場合、お互いの長所がより出るだろうとの仮説のもと、ファンデンヒーファーを左ウィングに入れた。ヤマハだとボールを持って走る回数がFBより多い。

 名 足がとても速い選手。

 清 本人は『俺がFBだ』といっているが、僕は左ウィングの方が活躍できると見ている。

 ―清宮監督は入れ替え戦を回避した翌年の11年から、名波監督はJ2時代の14年9月から指揮を執っているが最初の雰囲気は?

 清 サントリーの監督時代は優勝して当然の空気。一方、ヤマハは下部との入替戦のチーム。就任後『日本一』にすると言い続けた。しかし、半信半疑の選手も半分くらいいた。チームが結束したのは東日本大震災の3か月後に傷跡がまだ生々しい釜石へ遠征し、釜石シーウェイブスと試合をした時。被災地での真剣勝負でチームにスイッチが入り、私に疑心をもっていた選手が変わった瞬間でした。

 名 就任当初は重たいムードでした。何の目標設定もなく、バラバラで仲間意識もチーム愛もない、異常な空間。非公開練習が多く、何をしてもいいような空気だった。まず練習を公開し、ファンの視線を感じながら、協調性やチーム愛、仲間意識を植え付けさせた。ちょう落していた時代に『俺しか立て直せない』と自分自身を奮い立たせるようにしていました。清宮さんが『絶対優勝するぞ』と選手に言い続けたように、自分自身に言い聞かせていました。

 清 五郎丸が活躍した15年の英W杯後に大久保グラウンドに1000人来た。ファンが見てるのは五郎丸だけど、他の選手が一生懸命やるようになった。ファンの目は大事。

 名 結局、チームが変わるまで1年かかりました。いい空気を醸し出す選手が加入したり、メディアが発信する環境に身を置いていると自覚させることに。16年はJ1昇格への意識が整ったと感じました。

 =続く=

 ◆名波 浩(ななみ・ひろし)1972年11月28日、静岡・藤枝市生まれ。45歳。清水商―順大を経て95年に磐田入団。その後、伊・ベネチア、磐田、C大阪などでプレーし08年引退。日本代表では98年仏W杯に出場するなど67試合出場9得点。14年9月から磐田監督。家族は妻と3女1男。

 ◆清宮 克幸(きよみや・かつゆき)1967年7月17日、大阪市生まれ。50歳。大阪・茨田高から早大。サントリーでプレー後、01年に引退。早大監督に就任し3度大学選手権制覇。06年度からサントリー監督として07年度TL優勝。11年にヤマハ発動機監督就任。14年度日本選手権制覇。家族は妻と2男。

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