両国・相撲博物館で4日から「明治時代の大相撲」スタート

スポーツ報知
御濱延遼舘於テ天覧角觝之図

 東京・両国国技館内にある相撲博物館(東京都墨田区横網1-3-28)で、1月4日から企画展「明治時代の大相撲」がスタートする。

 明治維新によって新しい時代を迎える中、前代の遺物と見なされた大相撲を取り巻く環境は、たいへん厳しいものだった。そうした状況にあって、大相撲が人気を回復していくきっかけとなったのが、明治17(1884)年の明治天皇による天覧相撲であり、大相撲を支えた名力士たちだった。

 梅ケ谷藤太郎(初代)や常陸山谷右衛門ら、明治時代を代表する名力士や当時の出来事を紹介。江戸時代に興行として確立した大相撲は、明治時代になると徐々に競技としての制度が整備され、現在に至る大相撲の姿が形作られていった。今年は明治元年から150年の節目にあたる。

 ◆おもな展示物

 ▽御濱延遼舘於テ天覧角觝之図(歌川国梅・画)

 明治17(1884)年3月10日、延遼館での明治天皇の天覧相撲は、直前に横綱に昇進した梅ケ谷藤太郎(初代)と大達による二度水入引分となる大熱戦が評判となって、明治時代に入って沈滞していた相撲人気を大いに高めることとなった。

 天覧相撲での梅ケ谷(初代)の横綱土俵入りを描いた錦絵。太刀持ち・大鳴門、露払い・剣山、行司・木村庄三郎(のち15代木村庄之助)。

 ▽東京相撲 明治23(1890)年5月場所番付

 明治23年1月場所で大関に昇進した西ノ海(初代)は、場所後に横綱免許を受けた。しかし、次の5月場所の番付では、入幕から4場所負けなしの好成績を残した高砂部屋の後輩である小錦八十吉(1867~1914)が東の正大関に昇進し、西ノ海(初代)は張出となった。西ノ海(初代)は、大関に先に昇進していること、横綱免許を受けていることから、張出とされたことに不満を抱いた。そこで、西ノ海(初代)に対し、番付で「横綱」と冠することとした。これが番付に「横綱」と記載された最初である。東の張出に「横綱 鹿児嶋 西ノ海嘉治郎」とある。

 ▽常陸山谷右衛門(1874~1922)

 茨城県水戸市出身の19代横綱。身長174センチ、体重146キロ。幕下のころに脱走して名古屋相撲に加わったことがある。復帰後は無類の強さを発揮し、梅ケ谷(二代)をライバルとして競い合った。堂々と受けて立ち、きめ出しや吊りなど豪快な技で相手を退けた。現役中に欧米を巡るなど進取の気風に富んでいた。その性格や相撲ぶりから「御大」「角聖」といわれて慕われた。優勝1回。引退後は、年寄・出羽ノ海を襲名し、多くの弟子を育て、現在の出羽海一門の基礎を築いた。相撲協会の取締を務めて協会の運営に務めた。

 ▽常陸山谷右衛門使用のシルクハットとステッキ

 常陸山は、明治40(1907)年8月7日から41年3月28日まで、アメリカ・ヨーロッパを漫遊した。アメリカでは大統領のセオドア・ルーズベルトと謁見し、ホワイトハウスで横綱土俵入りを披露した。このシルクハットはその洋行のときに着用した。箱にはT・Ichigeと記されている。

 また、常陸山はステッキを愛用した。このステッキは、常陸山が大麻唯男(1889~1957、内務官僚から政治家、後に国務大臣を務めた。太平洋戦争後の大相撲復興に尽力した)へ結婚記念として贈ったもの。昭和19(1944)年に大麻から常陸山の遺弟子、年寄藤島(1896~1960、31代横綱常ノ花)に譲られた。

 ▽大相撲常設館国技舘

 長らく大相撲は、寺社の境内などに仮設の興行場所を設けて行われていた。雨が降ると順延で延びれば経費がかかり、観客も寒さ暑さに耐えながらの観戦となった。それを解消するために、明治39(1906)年から相撲興行のための建物の建設が始まり、明治42(1909)年6月2日に開館式が行われた。設計は、東京駅や日本銀行を手がけた辰野金吾(1854~1919)と弟子の葛西萬司(1863~1942)による。欧米にも例のない大規模な施設として話題になった。館名は完成直前まで「常設館」と言われていたが、小説家の江見水蔭による国技館初興行の披露文の文中にあった「角力は日本の国技」という文言から、年寄・尾車(元大戸平)が「国技館」と命名した。

 このほかに、雷権太夫(梅ケ谷藤太郎<初代>)書「光」、大砲万右衛門使用の足袋、梅ケ谷藤太郎(二代)引退記念ふくさ、見立七福神(二代歌川国明画)など、合計80点の資料を展示される。

 会期は2月16日までで、休館日は、1月6、7、8日、2月3日、12日。入館無料。1月14~28日の初場所、2月4日の朝赤龍引退相撲、2月10日のNHK福祉大相撲、2月11日の日本大相撲トーナメントは、観覧券が必要です。1月13日午後2時から展示解説会が行われる。

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