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元阪神ドラ1的場寛一さんの変わらぬスポーツへの愛情 四国ILをサポート

2018年6月19日10時45分  スポーツ報知
  • カラフルな四国ILのユニホームを紹介する的場寛一さん
  • 社内の的場さん 背後にはドーム社のミッションが…
  • 現役時代の的場さん 春季キャンプで今岡(右)と二遊間の連係を確認する
  • 阪神入団会見 野村監督(右)と笑顔で握手を交わすドラフト1位の的場さん

 2020年の東京五輪で多くの競技が行われる東京・有明。変貌を遂げつつある場所に位置するオフィスに元阪神のドラフト1位・的場寛一さん(41)の姿があった。オフィスの大きな窓からは有明BMXコースの建設予定地が見下ろせ、隣には有明体操競技場、有明アリーナの予定地が広がり、2年後には世界中の注目を集める場所だ。的場さんは現在、アンダーアーマーの日本総代理店であるドーム社に勤務。スポーツマーケティング部で独立リーグ・四国アイランドリーグplus(四国IL)の事業担当をしている。

 現役時代と変わらない人なつっこい笑顔がそこにあった。「リーグの価値を高めるために、一緒に頑張っていきませんか、という提案をしています。協業ですね」。昨年、ドーム社は四国ILとオフィシャルパートナー契約を結び、ユニホームなどの提供を始めた。「最初にユニホームのデザインを変えました」。それまでは左胸に小さくチームの愛称が入っていたものを、地域対抗の色合いを強くするために県名に変更、大きくして、地元チームという意識をさらに強めた。

 選手個々にもバットやスパイク、投手のグラブなど用具の提供を申し出た。「最初は色々な摩擦がありましたよ。(相手からしてみれば)急にメーカーが変わったんですから。19歳くらいの選手に『僕は違うのを使っているんでいいです』とか言われましたしね」。それでも徐々に浸透し、10%だった使用率が50%数を超えた。

 さらに開発したスポーツマネージメント用のアプリやおそろいのアップシューズなどを提案し、一部球団での導入が決まった。「ソーシャルメディアを使って拡散させて、アンダーアーマーの認知とリーグの認知を上げています。ジワジワ作戦ですよ」。実際に四国エリアでのアンダーアーマーの売り上げは、前年比でスポーツ全体では微減だったものの、野球カテゴリーではアップ。今年は巨人3軍との交流戦に協賛するなど、月に1、2回、現地に赴き様々な提案を行っている。仕事内容を語る熱い口調に充実ぶりがうかがえた。

 的場さんがドーム社に入社したのは2014年7月だった。阪神から戦力外通告されたのは05年、その後はトヨタ自動車に勤め、社会人野球で7年プレーし、12年に引退。社業に専念していた。人事系の職場でトヨタ独特の部署間を超えた結びつきを高めるインフォーマル活動の組織作りや、強豪で知られる女子ソフトボール部の事務局で予算や外国人選手との契約などマネジメントを行っていた。

 そんな時にかつてのチームメートから電話をもらった。元阪神、広島の喜田剛さんからだった。「ちょくちょく連絡があったんですが、(喜田が)バッティングセンターに勤めていて、子供たちを教えていると聞いて。『もし良かったら来ませんか』って誘われて、魅力的だなと思ったんです。スポーツから離れていて何かポッカリ穴が空いていた時だったんでしょうね」。

 喜田さんはアンダーアーマーベースボールハウス川崎久地で店長をしていた。的場さんは実際、足を運んで、生き生きと働く姿を見た。「(ドーム社の)企業ミッションが『スポーツを通じて社会を豊かにする』だったんです。単純に“いいな”って思って…。自分も小さい頃からスポーツ中心で育ってきて、そういった会社に身を置きたいと純粋に思いました」。世界的にも有名な大企業から新進気鋭の会社への転職にも、迷いはなかった。喜田さんの後任として店長を務めると、翌年は直営店のエリアマネジャーを経験、そして昨年からは現職についている。

 的場さんには、子供のころからスポーツが身近にあった。祖父がボーイズリーグの名門・兵庫尼崎を創設。父・康司さんがコーチ、監督を務めていた。自身も同チームでプレー。愛知・弥富高(現・愛知黎明高)を経て九州共立大に進むと素質が開花。大学日本代表にも選出され、大学NO1ショートとしての評価を受けた。当時は大学、社会人を対象に1球団2選手まで、自分の希望する球団に入ることができる「逆指名制度」があった。阪神、中日、近鉄、西武の4球団から誘いを受けたが、阪神を逆指名。4年秋の明治神宮大会の準々決勝では立命大を撃破。後にプロに進む山田秋親から同点3ランを放ち、田中総司からは決勝打を放つ活躍をみせた。同校初の全国優勝を“置きみやげ”にドラフト1位で阪神に入団した。

 プロ入り後の的場さんは苦難の連続だった。キャンプ中に左脇腹を痛め離脱するなど、故障に苦しんだ。人気球団ゆえの重圧もあった。「メディア数からして違うし、当時は考え方がガキというかね。長い目で自分を見ることが出来なかったですね。その1日、その1日しのぎでやっていたし、その日がダメでも長い1年を、という考えで行動すれば、長引くケガもなかっただろうし、プランニングというか、その部分が足りなかったですね。練習メニューを落としてくださいと言う勇気が出なかった」。

 一度狂った歯車はなかなか戻らなかった。「開幕して知らない間に人を避けるようになった。ファームに降格した時に新聞見ると、監督とかの厳しいコメントがあったり…」。期待の高さゆえの扱いに、人間不信にも陥った。「(報道で)メディアの人にもそう思われているのかと…。ヒソヒソ話しているのが気になって…。結局、自分が結果を出せばこういうことにならないのは分かっているけれど、人の目を気にして、違うところで戦ってましたね。純粋に野球と向き合っていなかった」と当時を回想した。

 2年続けて左膝を手術するなど何度もケガに泣かされたが、強肩を生かし外野手にコンバートされると持ち前の実力を発揮し始めた。本人も手応えがあった。05年だった。「あの年はメチャメチャ状態も良くて、キャンプからずっと結果を出していた。岡田(彰布)監督からも『ライトは的場で開幕行こう』と言ってもらえていたんです」。だが開幕戦のオーダーに的場さんの名前はなかった。直前のオープン戦でアクシデントがあった。3月10日の楽天戦(甲子園)だった。「チャンスで打てずに(オープン戦では)初めてタコって(無安打に終わって)…。この年が一番大事だと分かっていたんです。油乗ってきて今年勝負せんといけないと…。相手がこれまでファームで対戦して打っていた人だったので余計悔しくって」。自身のふがいなさに腹が立ちベンチでグラブを投げつけると肩が外れた。脱臼だった。前年に、けん制での帰塁で痛めた右肩を不注意で再び悪化させ、そのまま2軍落ちとなった。

 「塁間しか投げられずファームではファーストを守っていました」。その年、1軍は快進撃でリーグ優勝を果たした。優勝の瞬間は何をしていたのか。「家にいましたよ。目をそらしたいけど『見たろー』と思って、テレビで見ていました」意を決してチームメートが歓喜に沸くシーンを目に焼け付けていた。その6日後、球団事務所で戦力外通告を受けた。

 的場さんの現役生活はまだ続いた。「思い出づくりで」と12球団合同トライアウトを受験したところ、トヨタ自動車からオファーを受け、社会人野球でプレーすることになった。28歳での転身。「NPB復帰? 全く考えなかったですね。純粋に野球を楽しみました」。的場さんの加入とともにチームは好成績を残す。07年、08年と日本選手権で連覇を飾ると、09年には都市対抗で準優勝した。自身も社会人日本代表に選ばれ、ベストナインに選出された。

 「経験が生きましたね。試合の入り方や準備の大切さだったり、野村(克也)監督の言っていたことが年を重ねると理解できるようになりました。当時は全然理解できなかったんですけどね」と語った。具体例をあげてくれた。「例えばドラフト候補と言われる若いピッチャーと対戦するじゃないですか。(捕手のサインに)首を振って投げるボールは自分の自信のあるボールなんです。150キロのストレートだったり、ウィニングショットですよね。投手心理を分かりなさいと言われてましたね。プロではあえて首を振って違う球を投げたり、“首振り”のサインが出たりしますが…」。ベンチでも相手のクセを見抜きチームメートにレクチャーする。新しい感覚だった。「相手の心理を考えて、それで結果が出ると2倍楽しい。ベテランってこういう感じでプレーしているのかなって。また違ったステージでプレーできました」。プロでの現役生活(6年)を越える7年間プレーをしてバットを置いた。

 トヨタ自動車で学んだことがある。人材育成についてだった。「上司の部下への面倒見がメチャメチャいいんです。部下が話を聞きに来るのは勇気を出して来るのだから、上司がその時にきつい態度を取ったら、部下は一生話をしたくなくなると…。膝と膝をつき合わせて話をしなさいと教えられました」。これは的場さんが現在でも大事に心に留めていることだという。

 自身もプロ野球を目指して必死に取り組んでいたこともあるだけに、四国ILで夢を追ってプレーする若者を見つめる視線は優しい。「大学、社会人の他に四国ILという受け皿が出来て、大学を中退したり何かしら傷を負った選手でも夢を追える可能性が増えるのはいいことですよね」と言う。それでも物足りなさを感じることも。「(阪神で)星野(仙一)さんが監督に来て、チームが強くなる流れを目の当たりにしました。ピリピリムードは忘れもしません。当たり前のことが出来ない選手は去らないといけない。戦う姿勢や気迫の大切さを学びました。それを知っているだけに、四国ILの選手の中にはそこが足りないかなと思うこともあります。ちょっと寂しいですよね。自分の可能性を信じて歯を食いしばって頑張って欲しい」。

 プロでは納得いく成績を残せなかった。ドラフト1位という“肩書”をどう思っているのか。的場さんは考えながら言葉を選んだ。「もう少し頑張りたかったですし、期待に応えられなかったことは悔しいですが、歴史のある球団に自分の意思で入らせてもらった。夢を叶えさせてもらったし幸せだった。過去は変えられない。自分で背負っていかなあかん部分かなとは思いますね」。

 強烈に覚えているシーンがある。ルーキーイヤーの5月24日の中日戦(甲子園)でプロ初安打を記録した時だ。サイン通りに三塁前にセーフティーバントを決めた。一塁を駆け抜けてHランプがともったのを確認した的場さんはベース上で自分のプレーで歓喜に沸くスタンドを眺めた。降り注ぐような歓声が心地よかった。「甲子園のナイターの景色というか、そこに自分がいるのが信じられなくて鳥肌が立ちました。イメージしていたヒットじゃなかったですが、僕らしい初ヒットだと…」。この話には続きがある。試合は延長15回で試合時間は6時間2分、日付を越える熱戦となった。コーチから記念球を渡されていたがベンチに置き忘れた。「そのボールは持っておきたかったですね」と苦笑いを浮かべた。

 プレーヤーとしてではなく、それをサポートする立場に回った。「スポーツは(普通の生活をするには)なくてもいいかもしれないですけれど、力があると思います。例えば野球を嫌いな人でも夏の甲子園では出身地のチームを応援するし、平昌オリンピックではカーリングに興味がなかった人が好きになったり…」とスポーツの与える影響力を改めて実感している。

 「四国ILはポテンシャルはあると思うんです。子供たちが『俺たちのチームだ』って熱狂してもらいたい。自分が小さい頃、阪神ファンで『巨人なんて死んでしまえ、俺のヒーローは掛布や』って言っていたみたいに…。NPBに行くのはもちろんですけれど、誰か一人でもとどまって『リーグを盛り上げたい』という人が出てきたら面白いですね」。

 立ち位置は変わってもスポーツに向けられる愛情は変わらない。的場さんは多くの人を熱狂させ、そして感動させるスポーツの底力を信じている。(コンテンツ編集部・高柳 義人)

 ◆的場 寛一(まとば・かんいち)1977年6月17日、兵庫・尼崎生まれ。41歳。小学2年から軟式野球「杭瀬クーカーズ」で野球を始め、4年からボーイズリーグ「兵庫尼崎」でプレー。愛知・弥富高(現・愛知黎明高)では1年秋からサードでレギュラー。3年夏県大会は準決勝敗退。九州共立大に進み、4年間で8季中7度リーグ優勝し、4年秋の99年、明治神宮大会で日本一に輝く。同年、阪神を逆指名しドラフト1位で入団。05年に戦力外通告を受けた。通算成績は24試合、49打数7安打、1打点。打率1割4分3厘。翌年からトヨタ自動車でプレー。12年で現役を引退した。大学3年の98年から04年までは「寛壱」でプレー。現役時代のサイズは、180センチ、78キロ。右投右打。

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