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5戦連続アーチの伝説スラッガー、大宮南・有馬直人さんの今 プロへ行かなかった理由

2018年7月23日10時45分  スポーツ報知
  • 5試合連続本塁打の記録を持つ大宮南・有馬直人さんの現役時代の雄姿
  • 高校時代に5戦連発6本塁打を放った相棒の金属バットを手にする有馬直人さん。現在は体調管理の素振り用だとか
  • 有馬さんの活躍を報じる1987年7月27日付の報知新聞

 今年で第100回を迎える全国高校野球選手権。代表校が決まり始めているが、かつて夏の地方大会で5試合連続本塁打を記録したスラッガーをご存じだろうか。1987年の埼玉大会で5戦連発で6本塁打を放った大宮南・有馬直人さんだ。現在でも破られていない夏の地方大会の記録を残した伝説のスラッガーの行方を追った。

 有馬さんが87年に打ち立てた5試合連続本塁打は、翌88年、島根大会で江の川(現・石見智翠館)・谷繁元信さん(前中日監督)が5戦7発で並び、昨年の群馬大会で高崎健康福祉大高崎・山下航汰(現3年)が5戦5発を放ったが、破られていない。大会6本塁打も最多とされる谷繁さん、PL学園・福留孝介(阪神)の7本に次ぎ、大阪桐蔭・中村剛也(西武)と並ぶ記録だ。PL学園・清原和博さん(元オリックス)、大阪桐蔭・中田翔(日本ハム)は5本とそうそうたるメンバーと肩を並べながら、有馬さんの球歴は高校卒業後、プツリと途絶えている。プロはもちろん、大学野球、社会人野球などで活躍した記録は残っていない。

 49歳になった有馬さんは現在、川崎市にある富士通ソーシアルサイエンスラボラトリ(SSL)に勤務している。名刺には「第三システム事業本部長代理 兼 第一システム部長」とある。200人を超える部下を持つ管理職だ。高校時代は175センチ、68キロのスリムな体形は、現在90キロ。がっちりとした体格にスポーツマンだった片りんをのぞかせているが、柔和な笑みを絶やさない爽やかな語り口でソフトな印象を受ける。

 「1浪して専門学校に行ったんですよ。コンピューター系の専門学校を卒業して今の会社に入りました。SE(システムエンジニア)ですね。(高校)3年生の時も理系コースだったんですよ。野球部は(理系コースは)いなかったですね」。大学を目指し浪人生活を送ったが、専門学校・東京コンピューターに入学し、有馬さんは野球から離れている。

 大学からの誘いはなかったのか。有馬さんは「(誘いが)あったというのは監督さんから聞きました」。野球を続けなかった要因は大学受験の失敗かと思いきや、理由は別のところにあった。埼玉大会でしのぎを削ったライバルの存在があった。同級生で、西武にドラフト1位で入団する浦和学院・鈴木健さんだ。

 「浦学とはよく練習試合をやったんです。彼を見たときに、プロに行く人とそうじゃない人の違いがはっきりした。とにかく別格だったんです」。少年時代は漠然とプロ野球選手を目指していた有馬さんが出会った異次元の“怪物”だった。

 捕手だった有馬さんはマスク越しに見た鈴木健さんの風格を今でもはっきりと覚えている。「構えていて、『あれ、打たないのかな』と思ったところからバットがポンと出て打つ。スイングスピードも速かった」。長距離打者らしくボールを極限まで呼び込んで打つ。捕手目線で言えば、ボールが近づき、“打者は見逃す”と判断した後で、バットが出て来る。このような打者がプロに行くのだろう。そう実感した。大学で野球をすることを勧められたこともあったが、プロなどさらに上のレベルを目指す人が行くべきものと思っていたという有馬さんは、自分のレベルを冷静に判断してバットを置いた。

 鈴木健さんは当時、最多とされる高校通算83本塁打を放ったスラッガーだったが、有馬さんも負けていなかった。初戦(2回戦)の大宮西戦で本塁打を放つと、3回戦の聖望学園戦でも一発を放つ。4回戦の所沢緑ケ丘戦でもアーチをかけると、5回戦の市立川口戦では後に阪神に入団する速球派・牛山晃一から本塁打を放つなど1試合2発で大会新の4試合連続本塁打。準々決勝の東和大昌平戦で5戦連続に延ばした。鈴木健さん擁する浦和学院との準決勝は“大砲対決”“怪物対決”と騒がれた。

 西武球場(現・メットライフドーム)で行われた一戦は両者とも本塁打が出ずに、2―5で浦和学院に敗れ、大宮南の甲子園出場の夢が消えた。それでも有馬さんはこの大会で21打数14安打の打率6割6分7厘。6本塁打、6二塁打と大当たりした。「本当に最高の大会でしたよ。運を使い果たしたかと思うくらい…」。

 なぜ、ホームランが量産できたのか。有馬さんは当時を振り返る。「キャッチャーをやっていたお陰です。配球を考えて、キャッチャーの時は自分がバッターだったら何を待つかを考えてリードして、逆にバッターだったらどういうリードをするかを考えましたね」。大会でかけた6本のアーチの中でも会心の一撃がある。5回戦の市立川口戦での2本目の本塁打だ。「インコースを待って打った。狙い通りでライナーでレフトの場外まで飛びました」。当時の県営大宮球場での場外弾の弾道を今でも覚えているという。

 あとはバッテリーを組んだエース・石川弘幸さんの存在も大きかったという。卒業後、社会人野球の日本通運に進むなど当時から好投手と評判が高かった左腕だ。入学当初は外野手だった有馬さんは同学年に速球を受けられる人材がいないことと、肩が強いことから捕手にコンバートされた。「140キロ近いボールを投げていましたからね。最初は捕れなくて突き指だらけで指が曲がっちゃいました。でも速いボールと変化球をキャッチャーとして見ていたことが打撃にも生きたと思います」。春は腰痛や右ひじ痛に苦しんだこともあり、夏の大会まで、本塁打は練習試合で打った5本のみ。最後の大会で文字通り覚醒した。

 5試合連続6本塁打と完全燃焼したと思える有馬さんだが、少しの悔いが残っているという。「浦学との準決勝ですね。うちのピッチャーが準々決勝で脇腹を疲労骨折したまま投げて、(準決勝は)投げられなかったんです。(2年生の)2番手ピッチャーが投げたんです」。懸命なリードで鈴木健さんを4打数無安打に抑えたが「ホームランを打たれなければヒットならばいいと思って、(球を)散らそうと…。内角と外角を大きく使おうと無理をしないのが良かっただけ。(エースが)ケガをしていなければ…という思いはありますね」。

 もう一つ、今だから明かせる話を有馬さんはしてくれた。本塁打を生み出した金属バットをめぐるエピソードだ。当時、多くの高校球児に使われたSSKのウイングフライトが相棒だった。「大会の時に、バットにひびが入って使えなくなったんです。金属疲労なんですかね」。バットの異変に気がついたのは5回戦終了後だった。次戦の準々決勝・東和大昌平戦では、同じモデルの違うバットで打席に入ったが、ホームランは出なかった。最終打席は「本来はダメなんですが、ひび割れたバットで打席に立ちました」。使い込まれたバットで5試合連続アーチを放った。

 大会規則ではひびの入ったバットはもちろん使用できない。準決勝はさすがにそのバットは使わなかった。それでも2本の二塁打を放った。4回1死二塁でのタイムリー二塁打は左中間に飛んだ。当時の報知新聞には次のような記述がある。「夢をのせた打球は、しかしフェンスを越えられなかった。左中間最深部1メートル手前ではねる大二塁打」。有馬さんも言う。「惜しいところまで飛んだので、もしあのバットだったらも、もうひと伸びしたのかなと…。もしかしたら、と今でも思いますよ」。

 プロ野球を目指さなかった自身の決断を今、どう思うのか。「ひとつ間違えれば(どうなったのか)という思いもありますが、(自分の判断が)正解だったかなと思う。数年で(プロ生活が)終わっていたら仕事も探せないですよね」。SEとしてソフト開発などの“ものづくり”に手腕を発揮し現在は管理職。多忙ながらやりがいも感じている有馬さんは笑顔で話した。

 40歳を過ぎてからマスターズ甲子園を目指し、OBチームに入って再び硬式ボールを握る。「あと1つ勝てば甲子園というところまで行ったことはあるんですが、遠いですね。年々体もしんどくなるし、もし出られたとしても会社を休まないと行けないし、休みづらい立ち位置なんです」と苦笑いする。それでもかつての仲間と白球を追う時間はかけがえのないものだ。「一瞬で当時に戻ることができる。懐かしい話もできるし、昔の仲間はいいですね」。ホームランを打って球場全体が一瞬の静寂の後に歓声が巻き起こり、観客の視線が自分に注がれる。その快感とともに、懸命に仲間とともに甲子園を目指した思い出は決して色あせない。(コンテンツ編集部・高柳 義人)

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