前高校日本代表監督・小枝守氏が死去、反骨心を見たピンクのタオル

スポーツ報知
小枝守氏

 拓大紅陵(千葉)を92年夏の甲子園準優勝に導き、高校日本代表監督も務めた小枝守氏が21日午前9時7分、肝細胞がんのため、都内の病院で亡くなった。67歳だった。日大三(西東京)、拓大紅陵を率いて、両校で甲子園に春夏通算10度出場。高校日本代表監督としては16年U―18アジア選手権優勝、17年には主将・清宮(現日本ハム)を軸にU―18W杯で3位に入った。昨年11月末の検査入院から突然の旅立ちだった。

 古風な拓大紅陵のユニホームには、不釣り合いな色だった。試合ではいつもピンクのタオルで、小枝監督は太めの体に流れる汗を拭いながら指揮した。理由を聞いたことがある。「だって、日大グループのスクールカラーですから」。母校愛だけでなく、反骨心も入り交じったものだった。

 日大卒業後、76年に母校・日大三の監督に就任。だが6年間で甲子園出場は一度きり。「大人の事情で」と多くを語らなかったが、解任に近い形だったという。東京・両国で育った幼少期から憧れ続けたユニホームに、志半ばで別れを告げた。

 81年に拓大紅陵監督に就任。創立4年目の新設校では自分流を貫いた。数多くのプロ野球選手を育てたが、才能のある選手には特に厳しく、練習からも干した。一方、グラウンドでは大音量で流行歌を流した。「今の子供はリラックスさせないと力が出せない」。硬軟織り交ぜた指導で甲子園出場9度の強豪に作り上げた。

 指導歴が認められ、U―18日本代表の監督として大舞台に挑む17年。頂いた年賀状には「監督生活の総決算にします」と覚悟がつづられていた。悲報を聞いた時、その重圧が一因では―と邪推した。日の丸のついた縦じまのユニホーム。やはり原点である、ピンクのタオルを手に指揮を執る姿が脳裏をよぎった。(93~02年「報知高校野球」編集部・原 俊夫)

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