元巨人・田中健太郎さん、新潟ボーイズ発足させ監督として活躍中<上>松商学園高から97年ドラフト5位

スポーツ報知
田中健太郎さん

 現役引退後に少年野球の指導者になる元プロや甲子園のスター選手は多い。だが、教える事は自身でプレーをすることとは違い、指導のあり方など日々試行錯誤を繰り返しているという。ボーイズリーグで新潟県唯一のチームを発足させ、監督を務める新潟ボーイズの元巨人投手・田中健太郎さん(39)。(構成・芝野栄一)

 名前を覚えているファンは少ないかもしれない。長野・松商学園高から1997年のドラフト5位で巨人入りした田中さんは埼玉・坂戸市出身。同年夏の甲子園で145キロをマークした右腕は将来性を高く買われていた。しかし、1軍出場を果たせないまま02年に退団。原因は入団後に発症した右肩痛だった。

 「投げすぎでしたね」と原因を口にした田中さん。ケガに苦しめられた野球人生は、捕手から投手へ転向した高1の夏から始まったという。「松商に入ってすぐ、部員全員がブルペンで投げて“スピードコンテスト”をしたんです。自分が一番速かった。それを見ていたマネジャーが当時の中原(英孝)監督に報告したら、いきなり練習試合で使ってもらった」。強肩から投げ込まれるストレートは登板を重ねるごとに速さを増し、その年夏の長野大会では抑えを任された。ところが「準々決勝くらいから右脇腹が痛くなった。準決勝は何とか投げられましたが、限界でした」。佐久長聖高と対戦した決勝は出場できず、チームは終盤に逆転負け。「1点リードの7回にマウンドに上がったのは公式戦初登板のキャッチャー(当時3年の長岡智宏さん)でした」と田中さんは悔しそうに振り返った。

 ケガが治って秋に復帰。そこからエースとして活躍し、3年夏に悲願の甲子園出場を果たしてプロ入り。だが、すぐに右肩痛に襲われた。野手転向を余儀なくされた田中さんは、周囲から「練習の虫」と言われるほどバットを振ったが結果を残せず、5年目の秋に戦力外通告を受けた。田中さんの故障について小学生時代に指導した坂戸中央ボーイズ元監督の比留間正さん(81)は「身体能力は飛び抜けていましたが、投げる動作は背中から肩にかけて硬く“しなやかさ”がなかった。地肩の強さで投げる“馬力型”。当時はコントロールも悪くて投手向きではないと思い、本人の希望もあってキャッチャーをやらせた。責任感のある子なので高校でエースになって、無理をしてしまったのでしょう」と気遣った。

 田中さんは引退後、野球教室などを手がけるマネジメント会社を設立。15年には中学生チーム・新潟ボーイズを発足させた。そこではケガに悩んだ自身の経験から、選手の体の管理に万全を期した。整形外科と提携して年2回、定期健診を実施。平日の自主練習でも肩肘の痛みがないかチェックを欠かさない。「ここまでしっかりケアをすれば大丈夫だろう」と考えていたが、ある時、思わぬ選手から衝撃の告白を受ける。=〈下〉につづく=

 ◆田中健太郎(たなか・けんたろう)1979年6月7日生まれ。小学生時は坂戸中央ファイターズ(現坂戸中央ボーイズ)、中学では全坂戸(現坂戸ボーイズ)に所属。その後、松商学園高から巨人入りを果たすも1軍出場のないまま02年に退団した。現役引退後は、スポーツ関連商品販売のファイテン勤務を経て、13年に妻の実家のある新潟でイベントなどを企画・運営する「OUT FIELD」を起業した。

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