サラリーマンから高校野球監督に転身した48歳・綿引監督が夢見る「聖地で1勝」

2018年5月22日14時0分  スポーツ報知
  • 就任1年目の綿引監督と富士ナイン。文武両道を貫き、まずは夏1勝へ全力投球する

 今春、富士(東東京)の指揮官に就任した綿引良宏監督(48)は損保業界での22年間にわたるサラリーマン生活を経て、44歳で東京都の教員採用試験に合格した“オールドルーキー監督”だ。日立一(茨城)では1985年夏の甲子園で1年生ながら決勝打を放つ活躍を見せた男は、なぜ48歳の今、都立進学校の硬式野球部でノックバットを握ることになったのか。初めて迎える夏の大会を前に、その生きざまに迫った。(加藤 弘士)

 初采配は5回コールドでの大敗。それでも綿引監督の胸には喜びがこみ上げた。富士には保健体育教諭として4月2日付で赴任。初タクトは翌3日の春季東京大会1回戦、府中市民球場で行われた日大鶴ケ丘戦だ。プロ注目の剛腕・勝又温史(3年)を擁する強豪とのマッチアップ。0―13で敗れたが、幸せをかみ締める65分だった。

 「うれしくてうれしくて。ノックをするだけでもうれしい。ウチは部員が9人しかいなかったんですが、いいプレーもあったし、3者凡退に抑えたイニングもあった。『思った以上にやれる』と自信を持ちました」

 茨城県勝田市(現ひたちなか市)出身。中学時代は勝田シニアで遊撃手としてプレーし、3年夏にはシニア関東選抜の一員として現在慶大を率いる大久保秀昭監督らとともにハワイ遠征に行った。そんな84年夏、茨城の公立校・取手二が甲子園決勝でPL学園を撃破し全国の頂点に立った。俺も甲子園に行きたい―。14歳だった綿引監督は志望校を日立一に絞り込んだ。

 「夏の茨城大会準々決勝で日立一はほぼ2年生のチームながら取手二と1―3の接戦を演じたんです。取手二が全国優勝後、新聞で木内幸男監督の談話を読んだら『一番きつかったのは日立一との試合だ』と書いてあった。左右の好投手がそろっていたので『来夏は甲子園に行けるかも』と思ったんです」

 一般入試で合格できたとしても、すぐにレギュラーを奪わなくては、高1の夏に甲子園の土を踏むことはできない。中3の冬、たった一人で日立一のグラウンドへと練習見学に向かった。

 「簡単に入れる学力はなかったのですが監督さんに名前を覚えてもらおうと。そういう経緯もあり合格後は早めにチャンスをもらえたんです」

 「8番・中堅」としてスタメンの座をつかむと、チームは夏の茨城大会決勝の土浦三戦で6点差をひっくり返し、延長11回にサヨナラ勝ち。初の甲子園出場を決めた。日航ジャンボ機墜落事故で日本中が騒然となった85年8月。初戦(2回戦)の広島工戦で綿引監督はヒーローに躍り出る。両校無得点の2回2死一、二塁。右翼線に先制の2点三塁打。4―0で勝利し、同校の甲子園初勝利に貢献した。

 「小さい頃からの憧れでしたが、特別視すると緊張してしまう。今、打席に入るとあのカメラに映って、この辺に名前のテロップが出ているなとか、考える余裕がありました」

 3回戦の関東第一戦は次戦にKKコンビが登場することもあり、5万8000人の超満員。同校の指揮官は現在、日大三(西東京)を率いる小倉全由監督だった。2回1死満塁からスリーバントスクイズを試みるが、投前併殺に倒れた。0―4。完敗だった。

 「甲子園出場は、人生の中でも大きな自信になりました。やればできると実感できた。それがあったから、この年齢からでも教員になったと思います」

 1浪して早大進学後は野球部に入部するが、左太ももの肉離れに苦しんだ。ごまかしながら練習や雑用に明け暮れていたが、治らない。2年時に退部し、完治を目指すことにした。独自でリハビリやトレーニングの勉強に没頭しながら、未来予想図を描いた。

 「そうこうしていたらビジネスの世界に興味が湧いてきたんです。父は税理士なのですが、経済の勉強には全ての業界と取引があるから損害保険会社がいいと。教育実習も受け教員免許は取ったんですが、就職することにしたんです」

 大手損保会社に入社後は、主に企業営業を担当。22年間の勤務を経て、課長職まで務めた。長男の野球チームを手伝うたびに、野球熱が高まってきた。これからの人生について思った。

 「当時44歳。定年が65歳と考えると、あと20年ある。じゃあチャレンジしようと。教員採用試験について調べると、東京には年齢制限がないんです。都立高はまだ、甲子園で勝ったことがない。勝って、歴史に名を刻みたいと。そのためにも、本気で教員を目指そうと思ったんです」

 保健体育教諭の採用試験には陸上、水泳、球技、武道、ダンス、器械運動と6種類の実技があった。44歳のオッサンには、いささかハードな試験でもあった。

 「1600人が受けて、合格するのは100人。1500人が落ちるんです。多くの受験者は体育大を卒業した20代。私は健康診断でも『太りすぎ』とされていた頃で、これまでもダイエットを試みたんですが、全く体重が落ちなかった。でも『甲子園に行くんだ』というモチベーションを掲げた途端、17キロも落ちたんですよ。食生活も塩分と油を抑えて。それで何とかパスした感じです」

 45歳の春。念願の教員になった。月収は半分になったが、新たな目標へ活力がみなぎった。最初の配属先は高校ではなく荒川四中。3年間、バスケ部や軟式野球部の顧問に全力投球した。そして4月、東大合格者を輩出することでも知られる富士へと赴任した。部員は3年生1人、2年生8人、1年生9人。女子マネジャー2人も含めて計20人。野球未経験者もいる。

 「一昨年の秋、昨年の春は連合チーム、昨秋や今春も9人ギリギリでした。でも、いっぱいいた方がチームとしていい練習はできるし、活気が出る。門戸を広げたいんです。勉強したい生徒でも野球が好きだったら、ぜひ来てくれと。後はこちらの指導力で“その気”にさせていけたらいいと思っています」

 春の東京大会決勝は部員と視察に出かけた。優勝校は日大三。33年前のあの夏、聖地で勝負の厳しさを教えてくれた小倉監督ともう一度、戦いたいと思った。同じ高校生。付け入る隙はあるし、差がない部分もあるとナインには力説する。富士はなぎなた部が有名で、関東大会にも出場。映画化された人気漫画「あさひなぐ」のモデルになったことでも知られる。

 「教員採用試験の種目に剣道と柔道があったので、私も両方初段を取ったんです。武道は礼法一つとっても、絶対に隙を見せない。一喜一憂することなく、淡々と。そういう武道の精神を野球に取り入れたい」

 チームのモットーは柔道家・嘉納治五郎の「精力善用 自他共栄」。野球を通じて心身を鍛え、助け合いながら目標へと近づき、よき社会人を目指すというもの。一般企業で社会の荒波にもまれたからこそ、若者たちに教えられることがある。初めての夏。48歳、1年生監督の挑戦が始まる。

 ◆富士 東京都中野区弥生町にある都立の中高一貫校。1920年に東京府立第五高等女学校として開校。50年から男女共学。2010年から中高一貫校。今春も東大合格者を出すなど、進学校として知られる。部活動はなぎなたや剣道、陸上などが盛ん。硬式野球部は07年夏の西東京大会8強。主な卒業生は作家の有吉佐和子、池澤夏樹、津村節子、キャスターの森本毅郎ら。校舎は東京メトロ丸ノ内線・中野富士見町駅のすぐ前にある。上野勝敏校長。

 ◆1969年度生まれのアマ野球監督 綿引監督と同学年の甲子園優勝監督には、東海大相模・門馬敬治監督、大阪桐蔭・西谷浩一監督、花咲徳栄・岩井隆監督、山梨学院・吉田洸二監督らがいる。大学球界では慶大・大久保秀昭監督、日体大・古城隆利監督、上武大・谷口英規監督らが新時代の野球指導者として注目を集めている。

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