秋だ!国体だ!3記者の心に残る高校野球名シーン

2018年10月2日14時0分  スポーツ報知

 高校野球ファンにとってこの時期の楽しみは国体です。夏の甲子園を沸かせた強豪校が開催地で一堂に会し、春夏の聖地とは一風変わったムードの中で野球を楽しみ、日本一の座を競います。今週の「週刊報知高校野球」では心に残る国体の名シーンについて、記者が「見た」でつづりました。

 ◆「加藤が見た」“ラス投”で輝いた優勝投手…07年今治西・熊代聖人

 西武に在籍する「高校野球の日本一投手」には前橋育英・高橋光成や作新学院・今井達也がいるが、今回はこの男にスポットを当てたい。2007年国体V投手、今治西の熊代聖人である。秋田国体で見た彼の雄姿を、今でも忘れることができない。
 エースで4番。決勝の相手はその夏の甲子園で準優勝に甘んじた広陵だった。先発し、6回無失点と快投すると、一度は二塁を守ったが、1―0の9回にリリーフ。3連打を浴びて同点とされるが、その裏にチームメートがサヨナラ打を放った。既に社会人の日産自動車で内野手に専念することが決まっており「もう投手をやることはないと思います。最後に優勝投手になれて最高です」と笑った。
 国体の高校野球はそれまで奮闘してきた3年生への“卒業旅行”という意味合いが強い。今治西の選手たちも試合中、ずっと笑顔で大声を出していたのが印象的だった。その中心に熊代がいた。投打両面でセンスに優れた根っからの野球小僧。ムードメーカーでもあり、もし自分がスカウトだったら、こんな選手を獲得したいと思ったものだ。
 だから西武担当時代、プロになれた熊代を追えたのは幸福だった。中でも13年9月29日の西武ドームは記憶に残る。この日のロッテ戦で熊代はプロ初のサヨナラ打を放つのだが、サプライズはヒーローインタビューの中にあった。「私事ですが、試合中に第1子が誕生しました」。激闘の真っただ中、球団広報から父親になったことを告げられた。「奇跡です。子供が打たせてくれたのかな」と照れた。
 今季、西武の快進撃の裏側には、試合前の熊代による“訓示タイム”という名の声出しがあると聞く。あの頃のようなエースで4番でなくてもいい。チームに欠かせない存在であることを、うれしく思う。(野球デスク・加藤 弘士)

  • 今治西のエースで4番だった熊代。野球センスが光った

    今治西のエースで4番だった熊代。野球センスが光った

 ◆「鳥海が見た」準決で解いたハンカチの封印…06年早実・斎藤佑樹

 2006年の「兵庫のじぎく国体」は斎藤佑樹のための国体だった。夏の甲子園で決勝再試合の末、田中将大擁する駒大苫小牧を破り、早実を初優勝に導いた右腕。その後も高校日本代表の合宿から米国遠征、テレビで生中継された早大への進学表明会見など「ハンカチフィーバー」はとどまるところを知らなかった。そのフィーバーの集大成とも言えた大会だった。
 早実の初戦となった10月1日は徹夜組が3000人。6000枚用意された整理券はあっという間になくなった。この大会での最初の仕事は、徹夜客の声を拾うことだったと覚えている。
 あまりの過熱ぶりに取材規制も厳しく、選手たちの声は球場限り。当然宿舎も発表されず「山のほうに泊まっていて一切外出禁止らしい」とか「(姫路)競馬場の近くにいるらしい」とかうわさだけが出回っていた。
 周囲の期待に応えたのも斎藤だった。誰もが甲子園の再現を願ったが、早実と駒大苫小牧は逆ブロックに入り、両チームが決勝まで勝ち進まなければならない状況。しかし、本当に両チームは勝ちあがり、最後は早実が斎藤の快投と決勝打で1―0完封。翌年、会場だった高砂市野球場に「ハンカチメモリアルスタジアム」の愛称が付けられたことも熱狂ぶりを物語っていた。
 甲子園の張りつめた空気に比べ、どこかお祭りムードが漂うのも国体の特徴。甲子園以来封印していた「ハンカチ」を試合前にわざわざ売店で買って仕込み、準決勝の9回2死から出して顔を拭い球場を沸かせ翌日の本紙の1面を飾った。今年は金足農の吉田輝星が「シャキーンポーズ」をどのタイミングで見せてくれるのかが楽しみでもある。(05、06年アマ野球担当・鳥海 崇)

  • 早実・斎藤と駒苫・田中の名勝負は伝説として今も残る

    早実・斎藤と駒苫・田中の名勝負は伝説として今も残る

 ◆「蛭間が見た」地元初開催での大宮の快進撃…1967年・埼玉県

 あれは1967年、中学2年の秋だった。
 この年、埼玉県民は初の地元での国体開催で盛り上がっていた。私の通っていた田舎の中学校では、届け出さえすれば所属する運動部と同じ競技の国体観戦が許され、学校を休んでもOK。一応、新チームの主軸三塁手だった私は言い出しっぺとなって地元・埼玉の大宮が出場する高校野球硬式決勝の観戦を他の部員に提案するとみな大賛成。当日は木曜日で、部長、監督は授業があるので引率できず、1、2年生の20数人で出かけていった。
 大宮はその夏の甲子園1回戦で報徳学園に大会史上唯一のサヨナラホームスチールで敗れながらも国体開催地の特権で出場していた。初戦で仙台商を7―0、続く今治南も4―0で下しての決勝進出に、地元ファンで県営大宮球場は超満員。我々は右翼席の一角に陣取った。
 相手は夏の甲子園8強で、この年のドラフト会議で西鉄の1位(全体2位)に指名された快速右腕・河原明を擁する大分商。ほぼ互角かと思われたが、私たちも含め地元ファンの大声援に大宮は2回、4連投で疲れの見える河原からスクイズや適時打などで3点を先取。3回にも2点を追加。投げては2試合連続完封の金子勝美投手が1失点で完投勝利を成し遂げた。
 大宮の国体Vにスタンドは「バンザイ、バンザイ」の連呼。我々も一緒に立ち上がって勝利を祝福した。帰りの道すがら、同級生たちと「良かったな、最高だったな」と話しながら帰った思い出がある。国体の高校野球は現在、公開競技だが、当時は天皇杯のポイントになっていた。それゆえ、勝負に熱くなったのだろう。
 この決勝の余談を一つ。
 当時、球場のスコアボードは当然のように手動式。この試合のスコアボード係は、翌春のセンバツ優勝投手となる大宮工の吉沢敏雄さんが務めていた。後に知り合いとなったが、「あの時、国体の手伝いを仰せつかって、私は中堅後方から優勝のシーンを見ていました。そして、あの感激を自分も経験したい、と思いました」と話してくれた。(本紙ベースボールアナリスト・蛭間 豊章)

  • 1967年10月27日付 本紙最終版

    1967年10月27日付 本紙最終版

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