前高校日本代表監督・小枝守氏が死去 拓大紅陵で甲子園準V&清宮擁しU18W杯3位

スポーツ報知
17年8月、U―18W杯前の練習試合で集合写真に納まる小枝監督(左)と清宮主将

 拓大紅陵(千葉)を92年夏の甲子園準優勝に導き、高校日本代表監督も務めた小枝守氏が21日午前9時7分、肝細胞がんのため、都内の病院で亡くなった。67歳だった。日大三(西東京)、拓大紅陵を率いて、両校で甲子園に春夏通算10度出場。高校日本代表監督としては16年U―18アジア選手権優勝、17年には主将・清宮(現日本ハム)を軸にU―18W杯で3位に入った。昨年11月末の検査入院から突然の旅立ちだった。

 卓越した戦術と、きめ細かな指導で高校球界を支えてきた名将が天国に逝った。関係者によると、小枝氏は昨秋に体調不良を訴え、11月末に都内の病院に検査入院。年末に一時退院を許可され、千葉・木更津市内の自宅で妻、娘、孫らと穏やかに過ごしていた。年明けに再入院。数日前まで見舞い客と言葉を交わしていたが、この日朝、息を引き取った。

 闘病中も「高校野球は人間形成の場」と最期まで情熱を燃やし続けた。年末も慕ってくる教え子や現役指導者と野球の勉強会を重ねながら、周囲を思いやり、ごく親しい関係者以外には病状を伏せていた。20日に横浜市内で行われた横浜商大・佐々木正雄氏の監督勇退パーティーでも発起人の1人に名を連ねていたが、夫人が丁重に欠席の手紙を送っていた。

 76年に母校・日大三の監督に就任し、79年夏の甲子園に出場。81年から拓大紅陵を指揮し、92年夏に立川(元ロッテ、阪神)を擁して甲子園準優勝。エースの先発完投が当たり前の時代に、左腕、下手投げなどタイプの異なる4人の投手を駆使し、頂点にあと一歩まで迫った。

 14年夏限りで拓大紅陵の監督を勇退。16年に高校日本代表監督に就任し、今井(現西武)、寺島(現ヤクルト)、藤平(現楽天)ら強力投手陣を形成し、アジア選手権(台湾)を制覇した。翌17年には主将に清宮を据え、安田(現ロッテ)との大砲コンビを軸に、U―18W杯(カナダ)で3位に食い込んだ。

 「甲子園と世界の野球は全然違う。木製バットはしなりがないと(打てない)。(外国の)投手も5キロ増しで平均145キロ」と国際基準でレベルアップを追求。日本高野連の技術振興委員会副委員長を務め、甲子園大会の中継でも温かい解説で球児を見つめていた。

 ◆肝細胞がん

 肝臓の細胞ががん化して悪性腫瘍になったもの。肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれ、初期は自覚症状がほとんどないが、進行した場合は腹部のしこりや圧迫感、痛みを訴える人もいる。男性に多い傾向がある。

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