平野佳寿が海を渡った理由 WBC球握り「いける」そして岡田元監督の言葉

スポーツ報知
メジャーへの決意を熱く語った平野

 オリックスから米大リーグ、ダイヤモンドバックスへのFA移籍が決まった平野佳寿投手(33)が29日、スポーツ報知のインタビューに応じた。メジャーを意識するきっかけや初出場したWBCでの思い出、成長させてくれた指導者への感謝などを語り、来季活躍するためのメジャー打者対策も明かした。(取材・構成=長田 亨)

 平野はこの日、大阪から東京のオリックス本社へ足を運んだ。

 「僕をここまで成長させてくれたのはオリックスなので。今までの感謝と『頑張ってきます』という思いをお伝えしたかった」

 宮内義彦オーナー、井上亮本社社長・グループCEOに移籍を報告。宮内オーナーから「すぐ戻ってこい、とは言えないね(笑い)。一年でも長く、向こうで頑張って」と背中を押されたという。

 「僕がいる間に優勝できなかったのは残念だし、力になれなかったのは悔しいです。ただ、自分自身で決めた以上は、向こうでしっかりと頑張る。それが恩返しになると思っています」

 14年に国内FA権を取得。翌年に海外FA権を取得することから、複数のメジャー球団が獲得を目指していることを伝え聞いた。だが、FA権を行使せず、3年契約で残留した。

 「正直、『ぜひ(米国に)行きたい』というのはなかったです。オリックスでやり残したことがあったし、ボールとか環境面も考えて、まだメジャーでは無理だろう、と。当時はそういう結論になりましたね」

 オリックスひと筋―。だが、その心が大きく揺さぶられた。今年3月に開催されたWBC。追加招集で日本代表入りした。

 「最後に選ばれたし、そこまで僕の需要はないかな、という気持ちでした。とにかくボールが滑るし、スライダーは投げられるけど(決め球の)フォークが扱えない。あの試合がなかったら…」

 「あの試合」とは、3番手で登板した3月3日の強化試合、阪神戦(京セラD)だった。投球練習で握った球に好感触があった。実際に1回を無失点。

 「よくこねられたボールで、白じゃなく黄色っぽかった。それまでは白くてツルツルのボールだった。『このボール、何かしっくりくるな』と。これならいけると思いましたね」

 メジャー球に適応した。初戦のキューバ戦で2失点しただけで、その後の5試合では計1安打と完璧な投球だった。メジャーでも通用する自信が芽生えた。

 日本を代表するリリーバーも、06年のプロ入りから4年間は先発。救援の適性に注目したのは、10年に就任した岡田彰布監督だった。

 「先発がダメだから中継ぎに回すというより、その一歩前で見てくれていたと思います。ブルペンで投げる姿を見て『若いし、球の勢いがあるからリリーフでいける』と。見いだしていただいた岡田監督には、感謝の思いしかありません」

 岡田監督は捕手陣に「ちゃんと新聞を読んでるか? (相手の)誰がどこをけがしてるとか、少しの情報でも把握しろ」と厳しく指導した。その姿勢に平野の心構えも進化した。

 「野球をどれだけ勉強するか。すごく野球熱を持った方でした。大事だとおっしゃっていたのは、プレッシャーのかかったところで投げるということ。『もっともっと、自分を追い込んだ中で投げなアカンよ』と言われたこともあります」

 救援転向2年目の11年に最優秀中継ぎのタイトルを獲得した。

 「上原さんは年々、存在感を増しておられる。そういうふうになっていきたい。高校、大学時代に一番カッコいいと思っていたのが上原さん。上原さんみたいになりたい憧れはありました」

 目標に上原(カブスからFA)を挙げた。直球とフォークの組み立てという投球スタイルも似ている。

 「米国は高低差をよく使っている。高めの真っすぐ、低めのフォーク。(高めの速球は)日本では外国人にしか使ってこなかった配球なので、いろいろと考えて工夫が必要です」

 33歳。「行くなら最後のチャンス」と退路を断ち、最愛の家族を伴って海を渡ることを決断した。

 「まだ米国で1年もやってないから、5年、6年…とか言えません。そんな甘い世界ではない。契約してもらったこの2年間、結果を出すことが一番です。世界最高峰。そこにチャレンジして、どれだけできるか楽しみでもあります。体が動く限り、最後まであがいてみたいと思っています」

 ◆平野 佳寿(ひらの・よしひさ)1984年3月8日、京都府生まれ。33歳。鳥羽高でセンバツ2回出場。京産大を経て、2005年大学・社会人ドラフト希望枠でオリックス入団。プロ入りから4年間は先発で計18勝36敗。10年に救援に転向し、11年に最優秀中継ぎ、14年に最優秀救援のタイトル獲得。通算549試合で48勝69敗、156セーブ、139ホールド、防御率3・10。今オフ、海外FA権を行使し、2年600万ドル(約6億8000万円)でDバックスに移籍。

 ◆「英語の勉強? 全くしていません」

 <取材後記>慌ただしいスケジュールに調整をつけ、とにかく丁寧に対応してもらった。「せっかくなんで、もう少し話しましょうか?」。帰省ラッシュでごった返すJR東京駅を出発する直前まで質問に答えてくれた。WBCで出会った「黄色いボール」で自信が芽生えた。さらに、10月にワールドシリーズを観戦した際、岩隈と会う機会があった。「こっちはそういうボールばかりだから」と教わってメジャー挑戦への自信が深まった。

 「英語が話せないんでね。勉強? してません、全くです(笑い)。そこは嫁が頑張ってくれると思います」。移籍先を決める大きな判断材料にもなった家族の存在。アリゾナの街も「ゆったりして、いい感じでした」と気に入ったようだ。いつも冷静な同学年の金子が「おめでとう!」と珍しく声をうわずらせたのも、平野が愛されている証し。心の底から成功を願っている。(プロ野球遊軍・長田 亨)

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