盟友・森慎二さん、同い年の後藤スカウトが思い語った -追憶のあの人

スポーツ報知
長い足を豪快に上げる独特のフォームと剛球でファンを魅了した

 西武の森慎二1軍投手コーチが「毒性の強い溶連菌への感染による敗血症」で急逝したのは昨年6月28日。体調不良を訴えての入院から、わずか4日目に届いた42歳の悲報は、球界にとどまらず大きな衝撃を与えた。150キロを超える直球と鋭く落ちるフォークを武器に一時代を築いたセットアッパーを、共に西武で戦った同い年の盟友・後藤光貴スカウト(43)がしのんだ。

 2006年の引退後、西武の関西地区担当スカウトを務めている後藤さん。親友との別れは、あまりに急だった。

 「入院の時にも連絡をくれた方から電話を頂いたんですが、信じられなくて。でも冗談を言うような人でもない。時が止まったようで言葉が出ませんでした」

 放心状態の日々が続いた。

 「それからは、何だか気の抜けた感じで。『頑張らないと』と思うんですが、力が入らない。そんな中、たまたま大阪から九州に行く仕事ができた。遺体が福岡の病院から岩国(山口)の実家に戻ったタイミングでした。縁を感じましたね。新幹線が岩国を通過する間、ずっと手を合わせて、周りの目も気にせず泣きじゃくってました。告別式の後には、ひつぎも持たせていただいた。眠ってるようでね。『お前、何してんねん』と」

 亡くなる3か月前、チームがオープン戦で大阪を訪れた時に食事をしたのが最後になった。

 「(15年にコーチとして)慎二が西武に戻ってきてからは、定期的に食事に行ってました。その時も、いつものように野球の話を。選手を送る側と育てる側、お互い意見を言い合って。慎二は若い子にも慕われるからコーチに向いていたと思います。僕らが獲った選手を親身になって育ててくれていました」

 森さんが96年、後藤さんが99年の入団。同年代とあってすぐに意気投合した。

 「新人の時、一番に声を掛けてくれたのが慎二でした。『同級生らしいね。分からんことがあったら相談に乗るよ』と。そのうち遠征先では、ほとんど一緒に出掛けるようになりました。僕は結婚していましたが、嫁より慎二といる時間の方が長かったんじゃないですかね(笑い)」

 2年目からは自主トレも共にする。先発、リリーフと役割は違ったが、刺激を受ける存在だった。

 「僕が入った頃、すでに一線でやっていた慎二は“あの位置”まで行きたいと思う目標であり、ライバルでした。野球に関しては自分を持っていて『これだ』と思ったトレーニングには信念を曲げずに取り組んでいましたね。常々『やりたいことは全部やって、文句を言われない成績を残す』と。慎二の存在がなかったら、僕は漠然とやっていたと思います。チャラチャラしていたのは作った姿で、実は真面目で繊細な子でした」

 有言実行の男。

 「自分たちには新日鉄の“休部組”という共通点もありました。慎二の『光』、僕の『堺』は94年に休部になったんですが、あいつはその頃から『絶対プロに行く』と公言していたそうです。そうして自分にプレッシャーをかけていた、と。飲むといつもメジャー(リーグ)の話。進む道が明確に見えていました」

 プロ意識が高かった。

 「常に前を向いていましたね。いろんな壁にもぶつかったでしょうが、こんなに明るく前向きに物事を捉えられる人間がいるんだと思うほど。落ち込んでいる姿は絶対に見せなかった。打たれた日、慎二は1人で飲みに行くんです。バーなんかに。そうして次の日に持ち越さないように気分転換していましたね」

 熱くもあった。03年4月15日、後藤さんは前日に父・良二さんを亡くした事実を伏せて近鉄戦(大阪ドーム)に先発。伝えていたのは、伊原監督と森さんだけだった。

 「試合前、慎二が『必ずウィニングボールを持って帰ろうな』と。結局つなぐ展開にはならず、0―2で負けましたが、あの時の気迫はすごかったですね。ちなみに、その時、5回の円陣で伊原さんが(訃報を)言ってしまって。カブレラが『そうだったのか』と寄ってきたり。みんな力んでしまった。『監督、いらんことを…』と(苦笑)」

 06年、森さんは夢をかなえて米デビルレイズ(現レイズ)に移籍するもキャンプで右肩を脱臼。選手生命の危機に陥るが、メジャーのマウンドを諦めることなく、09年から独立リーグ石川でプレーした。

 「僕は北陸担当もやっていた時期があって、石川の試合を見ることもあったんです。ある日、抑え投手を目当てに行ったのに点差が開いた。『この展開じゃ出てこないな』と空振りした気持ちになっていたら(兼任監督の)慎二が投手交代に出てきた。『俺のために出してくれるのか』と思ったら、そのままマウンドに。ここまで回復したぞ、と僕に見せたかったんでしょう。それはそれでうれしかったですが『オマエかい!』ですよ。ところが、打たれて、結果的に目当ての投手が見られた。慎二は面白くなかったでしょうが『ありがとう』でした(笑い)」

 昨年できなかった墓前への優勝報告と魂の継承を。

 「今年は何とかいい報告ができれば。頑張ってほしいですね。特に投手陣に。そして今後『こんな選手がいたんだぞ』と存在を忘れさせないように伝えていけたらいいなと思います。慎二の野球に対する熱い思い、練習法や物事の考え方も受け継いでいきたい。あいつはよく黙々と走ってました。精神面を鍛えるという意味で、しんどいランニングをやることも大事だと。信条だった“前向きな姿勢”はプロとして一番大事なものだと思いますから」

 改めて、森さんはどういう存在だったのだろう。

 「親友であり、縁の切れない仲間。会って話すと心の曇りが晴れる存在でした。慎二という人間に会えて本当に良かった。僕がスカウトになれたのも慎二のおかげなんです。慎二の担当スカウトだった鈴木さん(現球団本部長)に推薦してくれていたらしく。あいつには感謝しかありません」

(取材・田中 俊光)

 ◆後藤 光貴(ごとう・みつたか)1974年8月27日、福井県南条郡今庄町(現南越前町)生まれ。43歳。鯖江高から新日鉄堺に進み、大和銀行移籍後に投手を始める。99年ドラフト7位で西武入団。2001年7月27日の日本ハム戦で挙げた“1球勝利”がプロ初白星。02年、初完投初完封を含む7勝を挙げてリーグVに貢献。05年、河原とのトレードで巨人移籍も10月に金銭トレードで西武復帰。06年限りで引退。スカウトに就き、浅村、増田、金子侑、森らの獲得に関わった。

 ◆森 慎二(もり・しんじ)1974年9月12日、山口県岩国市生まれ。享年42。岩国工高から新日鉄光、野球部再編で新日鉄君津へ。96年ドラフト2位で西武入団。2006年、ポスティングシステムでデビルレイズ(現レイズ)移籍。オープン戦で右肩を脱臼し、07年6月に契約解除。09年、BCリーグ石川の選手兼任投手コーチ、10年から監督兼任。15年、西武2軍投手コーチ、16年途中から1軍投手コーチ。NPB通算431試合、44勝44敗50セーブ、防御率3.39。02、03年に最優秀中継ぎ投手賞。球宴出場5回。

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