穴吹義雄さんを悼む 誤報にも怒らず「ええがな」我慢の人

スポーツ報知
南海監督時代の穴吹さん(1983年5月撮影)

 南海(現ソフトバンク)で監督を務めた穴吹義雄氏が7月31日午後0時6分、敗血症のため大阪・堺市内の病院で死去したことが4日、分かった。85歳だった。葬儀は近親者で執り行われた。

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 苦い思い出がある。入社2年目の1980年シーズン終盤、南海担当だった私の仕事は広瀬監督の後任探しだった。たどり着いたのが2軍監督で手腕を発揮していた穴吹氏だった。取材のパートナーだった記者が、手みやげを持って直接取材に行くと「新聞記者からみやげをもらったのは初めてや」と言いながら、まんざらでもなさそうだった。10月4日、満を持して1面で穴吹監督誕生を打った。が、同日、他紙がブレイザー監督就任を1面でやってきた。

 朝から脂汗をかいて、当時の川勝オーナーに取材の申し込みをすると「ブレイザーやろ。取材? 来なくていいよ」と相手にしてもらえなかった。クソッと思ったが、当の穴吹さんは「名前を出してもらっただけでもええがな」と、こちらをとがめることもなく、2軍監督を続けた。そして2年後、念願の1軍監督に就任する。

 我慢の人とでも言おうか。鳴り物入りで南海に入団するも派手な活躍はせず、やっとつかんだ監督の座で長く若手の指導に情熱を注いだ。東尾を育てた河村英文を投手コーチに招聘(しょうへい)し、畠山準ら高卒投手の獲得で改革を試みたが、Bクラスから抜けられなかった。

 「野球への情熱は失わんよ」と絶えず笑顔で話し、杉浦監督にバトンを渡した。欲深いことは言わず、“ドカベン”香川伸行をレギュラーで使い続け、何とか人気を回復しようともしていた。情熱の人の死を悼む。(常務取締役大阪本社代表・武次 由紀夫=80、81、84、85年南海担当)

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